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2010/02/24

前奏曲

タルレガの作品の中で、ずばぬけて美しいのが前奏曲である。これらは、まるで宝石のような輝きを放っている。


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ニーチェ研究について

 「神は、死んだ」とニーチェは言った。キリスト教もまた言う、「神は死んだ」と。神は、天の栄光を捨てて人となり、彼を信じる者の罪の身代わりとなって十字架に死んだのであった。ニーチェは、牧師の息子として生まれたという。しかし彼自身は、主イエスを信じるには至らなかった。それゆえ、主イエスは、彼の罪のために死なれたのではなかった。いや、もしそう言うのに抵抗があるならば、主イエスの十字架の購いをニーチェは受けとることを拒否したのであった。そして今日においても、なお福音を受け入れない多くの人々が、とくにこの日本において、大群衆をなしている。神は生きておられるのか。むろん生きておられる。しかし、今日の社会を見るときに、人々は何と言うだろうか。何と言っているだろうか。「神は死んだ」と言っているのではないのだろうか。そして、大多数の人が「神は死んだ」と言っている以上、事実上神は死んだのではないのか。「いや、神は生きている」とクリスチャンが豪語したところで、それは負け惜しみにしかならないのではないのか。
 パウロは、アダムの堕罪によって人類に入り込んだ「死」が律法を無力なものにしたと言った。それは、ある意味で、ニーチェが言っている「神の死」であったのかもしれない。それゆえ、イスラエルは神に立ち帰ることがなかった。しかし、律法は機能していなかったのか。そうではない。犠牲が捧げられ、祭司は罪の購いを施行していた。何が欠けていたのか。人々の心が真に神に従っていなかったのである。今日においても、福音は機能している。しかし、人々の心が神に立ち帰らないのはなぜなのか。「神の死の神学」というものがあるらしい。なんという矛盾した言葉だろう。今日における宣教において、「神」という概念がもはや無力になってしまったというのだろうか。
 これらのことを考えるとき、ニーチェが言っていた「神の死」とは何だったのか、ということが気になるのだ。それを考えてみようと思ったのである。

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