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2010/02/23

アンダンテ

ビバルディが、ギター曲を書いたのだろうか。それにしても、この曲はギターに良くあっているように思う。


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無である神について

 「神には、いかなる入り口もない」とエックハルトは言う。「入り口」は、内部と外部の接するところである。したがって「入り口がない」とは、内部と外部とが互いに接しておらず、完全に分離しているということである。つまり、人がこの世界を見ている間は、神を見ることはできず、反対にもし神を見るならば、今度はこの世界のものを見ることは、いっさいできないということである。ダマスコへの途上で、パウロはそのようにして神を見たのだとエックハルトは言う。そして今日においても、神を見ようとすれば、そのようにならざるを得ないのである。彼は語る、「恩寵や光が上昇したり増大したりすると理解している人は、まだ一度も神の内に来たことのない人である。神は増大していくような光ではけっしてない。確かに光の増大を通じて神へと到達したということはあるにちがいない。しかし光の増大のただ中では神の片鱗もうかがうことはできないのである」と。
 それでは、私たちはどうすれば神を見ることができるのだろうか。エックハルトは、「魂が盲目となり、他のものは何も見えなくなったとき、魂は神を見るのである」と言う。そのように私たちは、神以外のもの、すなわちいっさいの知恵や戦略、教訓や修行、そしてときには聖書さえもあきらめ、それらから離れて、ただ神のみを見ようと努力しなければならないのである。
 しかし、それにしても、ただむやみやたらに神を追い求めても、それは空を打つ拳闘となってしまわないだろうか。それに対しては、アウグスティヌスは、「神は真の光であり、魂にとってのよりどころであり、魂自身よりも魂に近くあるので、魂がすべての生成した事物から離れるならば、神が魂の内で輝き光を放つということは必ず起こらなくてはならないことなのだ」と言う。つまり、神を追求するというよりも、むしろ待ち望むのである。しかし、この点における従来のアプローチとの違いは、いっさいの備えを持たないということである。つまり、文字通り何も考えず、何もしようとせずに神を待ち望むのである。なぜなら、何か備えをするなら、それはこの世界からの連続的なアプローチとなり、それでは入り口のない神に到達することはできないからである。
 そこで私たちは、神にお会いするために、どのような備えもあえてしてはならない。ただし、努力は最大限にすべきなのである。すなわち、自分を無にするという努力である。自分の存在が無に等しくなり、その結果、すべての事物が彼にとって無に帰するとき、そのときの彼の状態は、まさに彼が神の内部からすべての事物を見るときの状態なのであり、そのようにして彼は、自分が神の内部にいることを知るのである。
 それでは、すべての事物を無と認識し、それにより神の内に入った者は、神をどのように認識するのだろうか。エックハルトによれば、それもまた無なのである。ああ、それではどうすれば良いのか。しかし私たちはここで、認識ということに関する自分の観念を変えなければならない。「認識とは、何かを捉えることである」という観念をである。といのは、何かを捉えるとき、私たちは媒介を必要とする。そのとき私たちの認識は、常に間接的なものとなる。たとえば、なにか物を見るとき、私たちは、その物から反射してくる光を捉えることによってその対象を認識するのであって、その対象を直接に認識するのではない。それゆえ私たちは、認識しようとする対象と一つになることはない。そのように私たちは、神の元から流出し、この世界の中にばらまかれているのであり、お互いに孤立していて、認識においても愛においても一つになることはない。しかしそれらは、神の内においては、相等しく、神はそれらのものに等しく与えるのである。エックハルトは語る、「神は被造物すべての内へと流れこむが、神はしかしながらそれらすべてに触れられることのないままでいるのである」と。私たちは、これをつかまなければならない。これとは、何であろうか。それは、「自分を変革する」ということである。「神には、いかなる入り口もない」、それゆえ、どのような手段を持ってしても、そこに入ることはできない。それでは、どうしたら良いのか。自分の内に神を見いだすのである。神はあなたを、ご自身の似姿に創造されたのだから。あるいは、「キリストの内に自分を見いだす」のである。キリストは、神の栄光を捨てて、あなたと同じ姿になられたのだから。この二つは、旧新約における神秘の真髄である。自分を変えるのは、ある意味で自分で行う作業であるが、そこに神の恩寵が働く必要がある。ちょうどパウロが天からの光で盲目とされたように。恩寵は、天から降り注いでくる。しかしそれが来たとき、あなたは自分を変革しなければならないのである。

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