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2010/02/17

大いなる方に

せっかくギターがあるのだから、神を賛美したい。大いなる方を。神を賛美するのには、すべての手段を用いるべきだ。神がお嫌いにならないなら。たぶん、お嫌いにはならないと思う。神は、ギターをも造られたと思うから。教会では、ワーシップ賛美というものを歌う。これは、きっと神はお好きだろう。ワーシップ賛美は、選曲から始まる。選曲は、調とテンポと歌詞の組み合わせだ。選曲は、神へのアプローチである。そのとき神から与えられるインスピレーションにより、どういう道を通って神に近付くかを思いめぐらす。長い道のりのときは、調を変えずに、同じ調を何度も歌う。早く近づくためには、調を変える。それは、カーテンを一つづつ開けて行くようなものだ。時には、GからF、FからG、GからF、FからGと行きつ戻りつすることもある。選曲全体は、一つの上り坂と下り坂を形成する。それは、神の高みに登り、再び降りてくる道筋である。これらが前準備。そして、賛美の時には、それを全部忘れて、神に導かれて賛美する。何が起こっても、神の導きに従う。それが、ワーシップ賛美だと思う。

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アルハンブラ

タルレガという人は、一生涯爪の切り方に悩んだと言われている。すこしおこがましいかもしれないが、私もそうだった。絶えず爪を切ったり伸ばしたりしていた。紙やすりで削ったり、皮で磨いたり、なにをやってもしばらくすると気に入らなくなった。そこで、思いきって爪を短く切り込んでしまった。それ以来、爪を使うことはしない。これは、トレモロ奏法には致命的である。でも、だからといって、また爪を伸ばすことはしないと決めている。また、あの悩みの中に投げ込まれるのがいやだから。それに、爪を使わなくても、けっこう良い音はでるもんだと思う。少なくとも、自分で楽しむくらいには。



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魂の内にある火花について

 エックハルトはここで、自分の前に置かれた講壇とそれを見ている自分の目とに関する比喩から始めて、人の魂と神との共通性について語っている。その根底にあるのは、神が人をご自身の形に創造されたという聖書の記述である。つまり、「神は、人をご自身の形に創造されたと聖書に記されてあり、かつそれが『この部分は』と限定されていない以上、人は神にそっくりに造られているのだ」と彼は言いたいのだろう。それでは、人が神にそっくりだということは、何を意味するのだろうか。それは、自分を見れば神が分かるということと、自分の中に、神のように機能する部分があるということである。
 エックハルトによれば、主イエスが言われた「わたしを見た者は神を見たのです」という言葉は、「神はイエス・キリストというただ一人の人においてご自身を表された」という意味に留まらない。というのは、主イエスはまた「わたしを信じる者は、わたしのしている業をする」とも言われたからである。そこで、神は私たちを通してもこの世界にご自身を表されるのである。そこで、もし私たちが、自分の体を生きた聖なる備え物として神に捧げるなら、私たちは、その内に神が住まいされる聖なる神殿となるのである。そして、エックハルトによれば、その内に神が住まわれるということ、そして神の器とされるということは、神の側だけの業ではない。それは、私たちも参与しなければならないことなのである。しかもそれは、ちょうどマリアが主イエスを生んだのと同じように、決心と献身を要することなのである。
 エックハルトは、人に与えられている「生む」という機能を特別なものと見る。それは、その営みを通して、私たちが霊的な世界の事実を認識するためなのである。それは、父なる神が御子を生むという聖なる永遠の業から出ている。それは、肉親としての父親から天の父なる神を想い、母親から主の母マリアの献身と忍耐を想うためであり、さらにそれらを通して、自分自身が御子イエスを自己の内に懐胎する、すなわち「生む」という事実を知るためなのである。
 しかし、なぜ私たちが自身で神を生まなければなはないのか。エックハルトによれば、それ以外に私たちから神へのアプローチは存在しない。神は、私たちの心に主イエスを懐胎させられる。しかし、実際に生むのは、私たちの方なのである。それは、マリアが聖霊によって身ごもった後に、家畜小屋で御子イエスを生んだのと一緒である。そして、この自ら神を生むという働きは、神から魂に与えられた働きなのであるが、それは魂自身の認識を越えている。肉体における生むことが半不随意的な機能であるように、霊的に生むということもまた、半不随意的な働きなのである。それは、エックハルトによれば、「神自身を生みこむ神の働きの内で神を受け取る」ということである。この「霊的に生む力」は、精神の他の力と共に人に与えられ、それらの力と共に魂の内にあるのだが、それらの力との一性よりも神との一性の方が大きいとエックハルトは言う。そしてこの力によって、まるで父なる神が御子を生むように私たちも御子を生む(生まされる)のであり、そのことを通して私たちは神をありのままに認識するのである。しかし、それが可能となるためには、私たちがこの力を正しく認識し、他の力から区別する必要がある。つまり、「霊的に生む」という力を聖なる三位一体から発する力と捉えて、それに依り頼み、他の力を軽視し、それらによるこの世界の認識とそれに基づく諸々のもくろみや束縛から自由にならなければならないのである。
 そのとき私たちは、自分という1個の存在に与えられている諸能力という観点、つまり自分という存在を基点とした観点から解放され、すべての存在を貫く神の働きとしての観点からこの世界を捉えるようになる。これは、存在を超越する方向性であり、その思考は自分を突破する。そればかりではなく、やがてすべての存在を突破せずにはいない。しかもその中には、聖なる三位一体における三つの位格も含まれる。そしてエックハルトによれば、驚くべきことに三位を超越した、彼の言う「神性」という神の本質さえも、それが「存在」として捉えられ得る限り突破の対象となる。しかしその後に、いったい何が残るというのだろうか。神ご自身、いや神ご自身の根底と言えるものさえ突破し、無に帰してしまった今となっては。しかしエックハルトによれば、そこにあるのは「満足」であるという。しかしこの満足は、私たちが通常想い浮かべるようなものとは異なる。というのも、それは神ご自身が持っておられるものなのである。それは、いったい何なのか。エックハルトによれば、それは「単純なる静けさ」であり、「静粛なる砂漠」である。そしてそこには、「だれも住まいするものがない」、実際はあるのかもしれないが、たとえあったとしても、それを認識する手段はない。そこには、実に概念というものがないのだから。そこは実に「不動なる根底」であり、「内的世界の最内奥」なのである。

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