« 2010年2月11日 | トップページ | 2010年2月16日 »

2010/02/12

神が魂の内に子を生むということについて

 「神はすべての被造物をひとつの発語の内で創造するのである。つまり魂が命あるものになるために、そのために神はそのすべての力を生むことに費すのである」とエックハルトは言う。この「命あるもの」とは、「つねに若い」ということであり、「つねに若い」とは、「時間から自由である」ということである。「知性はいかなる時間にも触れることがない」と彼は言う。
 私たちは、時間の中で生活しており、時間の束縛の中にある。しかし、時間を認識できるということ、それを数えることができるということは、知性が時間を越えている証拠である。しかし私たちの肉体や感覚は、時間に完全に縛られている。すべての物理法則もそうである。それゆえ私たちは、この時間の中に縛られている自分と周りの世界を認識し、息を詰まらせるのである。しかし、私たちの知性自体は、時間に縛られてはいない。私たちは、自己の知性において、時間を止めたり、永遠に向けて想いを馳せることもできるのである。しかし私たちは、生まれながらの生活の中で、時間に縛られた思考形態に慣れてしまった。つまり、せっかく時間から自由な知性を所有していながら、あたかも自分の心の中で時間が流れているかのような不自由な思考をしていることがあるのである。しかし、主イエスは言われる、「神には不可能なことはない」と。神には、すべてが可能なのであり、この信仰の確信こそ、私たちを縛っている物理法則から自由にし、時間から解放するものである。
 それは、どのようにして起こるのか。私たちが主イエスを信じ、その僕となって彼に従うときにそれが起こるのである。そのとき、神の御子イエスのゆえに、神的恩寵が父なる神の元から私たちに注がれる。しかしエックハルトによれば、「恩寵が何かのわざをなすということはない。恩寵がそこに現れるということが恩寵のわざなのである」。そればかりか「恩寵は知性の内へも、意志の内へもやってこない。恩寵はどんなわざもいまだかつて一度もなしたことがなく、わざを通じて魂を神との合一へと導いていくこともないのである。恩寵とはむしろ神の内に魂が住みこむこと、共に住まいすることなのであり、このことに比べれば、いままでにわざとよばれたもの、外的、内的な一切のものは、あまりにも価値が低すぎるといわなくてはならない」のである。
 そこで私たちは、すべてのことを自分の力でなさなければならない。そしてそのために、「神はすべての力を、生むことの内で費やすのであるが、そのことは、魂が再び神へと戻り来ることを目ざしているのである」とエックハルトは言う。そして、神の御子が私たちの心に生まれると、「神はその子の内で自分自身を語り出す」のである。そのとき、魂は再び命にあふれたものとなり、知性は時間から解放され、神にはすべてが可能であることを実感するのである。そしてその究極の業は、エックハルトによれば、「魂が神と同じ姿であるものの内で神を自分の内から生む」ということ、すなわち「魂が神をまさに自分自身から生むこと」である。この生むというのは、創造の模倣であり、生む本人は、自分のしていることの責任をとれるわけではない。生むというより、むしろ生ませられるのである。ちょうどマリアが主イエスを生んだのと同じように。そこでは魂は神の似像である。エックハルトは語る、「魂が神の像であるような場で生きるときに、魂は生むのである。そこに本当の合一がある」と。
 神との合一は、ここにこそあり得る。すなわち、神が魂をご自分の似姿に創造されたという一点に。それ以外の接近は、神への冒涜である。エックハルトは語る、「魂が神の像であるところでは、天使も全被造物も、魂を神からけっしてはなすことはできないであろう。これが本当の合一であり、この内に本当の浄福がある。多くの師たちは浄福を知性の内で求める。しかしわたしは、浄福は知性の内にも、意志の内にもなく、それら二つを越えていると断言する。浄福が知性としてではなく、浄福としてあるところ、神が神としてあるところ、魂が神の像であるようなところ、そこにつまりは浄福があるのである。魂が神を、あるがままにつかむところ、そこに浄福はある。そこでは魂は魂であり、恩寵は恩寵であり、浄福は浄福であり、神は神である。主に祈ろう。わたしたちが、そのように神とひとつになることに恵まれるよう、神が助けて下さるように。アーメン」。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2010年2月11日 | トップページ | 2010年2月16日 »