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2010/02/09

バイオリン

Violin バイオリンとは、ずっと一緒だった。大学受験に2度失敗して浪人中のときから、大学オケに入り、練習し過ぎて落第したときも、会社に入ってから市民オケに入ってからも。でも、自分の満足できる音が出るようになったのは、つい最近のことである。バイオリンを誰かに習ったことはない。全部自己流、最近では、YouTubeで有名なバイオリニストの演奏が思う存分見られるので、教材に事欠くことはない。でも、私が一番師事したのは、聖霊だと思っている。バイオリンは、信仰そのものである。まず、自分の力、自分の思い、自分のやり方を捨てる必要がある。そして、バイオリンに弾いてもらうことを覚えなければならない。それを習得すると、楽器がいままで聞いたこともないような音を出すようになる。そうなるまでは、何度も何度も、何度も弦の上にひたすら弓を走らせる。同じところを何度も行ったり来たり。その運動をひたすら続け、磨き上げる。右手がうまく動くようになると、自然に左手も動くようになる。そして、すべてが一皮むけたように前進する。そして、また同じことの繰り返し、そのように玉ねぎの皮をむくように、何度も何度も脱皮して、次第に音が磨かれてゆく。その時をひたすら耐えながら待ち続ける。
 あるとき、新しい教会に移り、礼拝の賛美の伴奏にバイオリンで参加するようになった。バイオリンでどんな風に弾いたらいいのかまったく分からなかった。祈りの中で聖霊に尋ねた。「それは、3つある」と聖霊が言われた。「ハーモニー、ストーリー、エモーションだ」と。「メロディーを弾くのではない、麗しい霊的なハーモニーをつけるんだよ。」「それから、賛美は主の物語だ。だから、ストーリーがある。ストーリーとは、時に同意、時に会話、時に応答だ。」「最後に、賛美は聖なる感動だ。感情の高まりを自由に表現しなさい。ただし、節度を保ってね。」それは、少し苦しい格闘であったが、麗しい旋律が与えられることがしばしばあった。いまは、賛美チームの人数が減ったこともあり、ギターを弾かなければならなくて、バイオリンで参加することもなくなった。市民オケでは、ビオラを弾いている。ちょっとさみしい気もする。せっかくいい音が出るようになってきたのにね~。

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永遠について

 若い頃は、歳は取りたくないと思っていた。大人の社会を見て、あまりこれといった希望も持てず、自分もそのようになりたいとは思わなかったから。でも、自分が当の大人になってみて、これもそれほど捨てたものではないと思った。というのも、子供と比べて、考えていることが格段に多いことが分かった。子供の頃は、とうてい理解できなかったことや意識さえしていなかったことの意味が分かるようになった。そしてそれらの知識を持ってして、この社会の構造や人と人との関係もある程度理解できるようになってきた。これは、とてもすばらしことであり、このことだけでも私は、もう一度子供の頃に戻りたいとは決して思わない。今が最高であり、人生で最もすばらしい時なのである。
 しかしもうひとつ、歳をとって良かったと思うことがある。それは、この世界にはないもののことが自分なりに分かってきたからである。「自分なりに」と言ったのは、この世にないものが果たして普遍的に理解できるものかどうか分からないからである。そこで少なくとも自己満足的にでも納得することができ、自分の手の及ぶ範囲でそれを実証できてさえいれば、この件に関しては、とりあえずそれで大満足なのである。そこで、前置きが長くなってしまったが、これから、私が理解した「この世界になはいもの」について、少し書いてみようと思う。
 まず、「永遠」ということについてである。これは、この世にないと言っても、そこここで私たちはこの言葉を聞くことがある。そこで、永遠というものがあるらしいことを私たちは知っており、自分なりにそれを想像してみたりすることはあるだろう。しかし、それがどのようなものかということに関しては、たぶん誰しもあまり真剣に考えたりしないのではないだろうか。例えば、永遠とは、「時間がどこまでも続いていて、限りのないもの」というような概念がある。しかしもしそうなら、自分はそういう世界に行きたいとは、たぶん思わないだろう。現在がどのように楽しくても、それはやがて飽きてしまうかもしれないから。しかし、決して飽きないように思われることもある。それはたとえば、純粋な愛の関係である。これは、昔から永遠に続くように考えられてきたし、当事者たちにあっては、その時の状態が永遠に続くことは、心から望ましいことなのだろう。しかし、また一方で、世の常として、そのようにしてスタートした夫婦関係が不孝にも破局を迎えてしまうことや、そこまでは行かないまでも、倦怠期に入り、互いに別々に過ごす方が難がないというような状態になってしまうこともあるようだ。そのようなことを見るときに、やはりこの世界の知識の延長では、永遠の世界のことは分からないのかもしれないと思われてくるのである。
 しかしここに、永遠の世界について昂然と述べている書物がある。聖書である。たとえば、黙示録の4章には、24人の長老が出てくる。彼らは、全能の神を礼拝し、その御座の前に、自分たちの冠を投げ出した。ここを読んでいたとき私は、これは永遠の世界のことだと分かった。彼らは、自分の冠を投げ出してしまったので、もう手にはない。その後、どうするのだろうか。もう一度拾い返すのだろうか。いやこれは、永遠の出来事なのだ。彼らが自分の冠を神の御座の前に投げ出したことは、礼拝そのものである。そして、その最高の瞬間が決して終わることなく、永遠に続くのである。というより、永遠とは、そのような最高の瞬間をより集めたようなものだと思う。その中には、恋人たちの愛の断片も多く含まれることだろう。そして、とにかくそこは、すばらしい瞬間で満ちているのだ。この永遠の世界から逆にこの世の方を見ると、それは、それらの素晴らしい瞬間が壊れて行く過程や、ある瞬間が衰退して、その後にそれが改善され、さらに完成して、再びもっとすばらしい瞬間へと移って行く、その過程の世界である。そして、この世では、それらの息をのむようなすばらしい瞬間は、二度と戻って来ない。しかしそれは、永遠の世界には、スチル写真のようにすべてが記録されている。そこは、さながら人生の美術館のようだ。それらが移り行くことはない。移り行く必要はない。そこには、すばらしいものしかないのだから。そこで、そこには戦略というものや計画というものがない。すべてが完成されている。そこでは、人の魂も完成しており、成長することはない。時間が移り行くこともなく、すべてが生きたまま輝きを放ち、永遠にそのままである。そこでは、それ自体ですばらしいもの、価値のあるもの以外は存在しえない。「今に良くなる」とか「これからこうしてやる」というようなものは最初からそこには入れない。そこでは、神の子イエスが生まれつつある。聖霊が発生しつつある。三位一体は永遠の世界のできごとなのだ。宇宙が誕生しつつある。そして、同時にそれらは完全に完成している。すべての誉れある勝利者が、いままさに出陣し、そして今まさに凱旋してきている。「主はあなたの出ずると入るとを守られる」と聖書にある。神の大いなる栄光がいままさに現れ、すべての神の子がそれを礼拝する。そして、それらすべてが、まさに同時に生起する。そこにいる人は、自分の心で良いことを志す。するとそれが瞬間的にそのままに生起する。主イエスは、「風は思いのままに吹く」と言われた。そこには、時間の流れはないが、決して死んだように静まり返った世界ではない。そこは、実に活動的な世界、すべての良いことが瞬間的に起こり、そしてその起こったことは永遠に続く。これが永遠の世界なのだ。

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とりとめのないこと

 ブログというものは、もともととりとめのないものだと思う。最初書き始めたことが、いつのまにか横道にそれ、巡り巡って最後には思っても見なかった結論に至ることもある。そんなとりとめのないところに言いようのない魅力を感じる。そして、自分でも何を書いたかをすっかり忘れてしまっているので、後になって読み返してみて、自分で書いたことに驚いたりあわてたり、果てまた感動したり、これがまたとても痛快である。しかし、とりとめがないと言っても、そこには何がしかの決まりのようなものはある。あらかじめ決めたカテゴリーに沿って書いているのだから。しかし、このブログカテゴリーも、その決め方がいつしか段々と曖昧なものになってきたような気がする。それはやはり、もっと自由度が欲しくなったのだと思う。というより、いままで正面切って書けずにいたこと、そのようなとりとめのないことが溜まってきて、叫んでいるように思えるのだ。そこで、ここにまさにその欲求のようなカテゴリーを作ることにした。これはきっと自由に書けるに違いない。そして、書いたそばから、きっと忘れてしまうに違いない。

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捨て去るということの意味について

 「あるものをわたしのために、わたしの名のために捨てる者には、わたしはその百倍を返し与え、さらに永遠の命をつけ加える」と主イエスは言われた。これはいったいどういう意味だろうか。「あるものを主イエスのために捨てる」とは、主イエスへの愛の表現である。主イエスは、またこうも言われた、すなわち「わたしが自分の命を捨てるから父は私を愛して下さるのである。命を捨てるのは、それを再び受けるためである」と。神のためにあるものを捨てることにより、神に愛されるものとなる。そして、神は愛する者にそれらを再び返し与えられるのである。そのときその人は、それを真に所有する者となり、もはやそれをその人から奪い取るものはない。それゆえ私たちは、この主イエスが言われた真の所有をこそ追い求めるべきである。
 エックハルトは語る、「神のすべての掟は神の本性である愛と慈しみとからくるものである。なぜならば掟が愛によるものでなければ、それはけっして神の掟ではありえないからである」と。それゆえ、主イエスが言われた「わたしのために捨てよ」とは、「愛の掟」である。それは、あるすばらしい状態、神との最上の関係への入り口なのである。パウロは語った、「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいる」と。エックハルトもまた語る、「神はすべてのものに等しく与える。しかし、すべてのものはそのわざにおいては全く異なるのである。それにもかかわらず、それらは自分達のわざにおいて、自分自身の有と等しいものを求めるのである。自然はわたしの父の内では自然のわざを働くのである。自然の目ざしたものは、父が父であったように、わたしが父となることであった。わたしの父はそのすべてのわざを、父自身と等しいもののために、父固有の像のために働くのである。父が働きを受けたものそれ自身になるように」と。
 神は魂を御自身の似姿に創造され、それぞれに体を与え、それを治めさせられる。その意味で人間は小さな宇宙である。また神は人に、神が造られたこの世界を治めることを命じられた。それは、神が御自身の似姿に創造された人間に、神の業をさせるためであった。しかし、それをねたんだ天使長ルシファーは、アダムをだまし、自ら神になろうとして、その祝福を横取りしてしまった。ルシファーが行ったことは、人の代わりに神のようになろうとしたのであり、自分を捨てずして、すなわち自分を主張したまま、神のようになろうとしたのである。しかし、神が人に望んでおられることは、自分を捨てて、神のようになることなのである。もし人が自分を持ったままで、神のようになろうとするなら、それはルシファーの行ったことと同じである。しかし、主イエスが教えられたように、もし自分を捨てて、すなわち自分に死ぬことにより、神のようになろうと欲するならば、それは神が意図しておられたことなのである。なぜ、そのようなことが可能なのか。エックハルトによれば、「魂の内には、魂の被造的有を超えたあるものがある。それには、無であるいかなる被造物も触れることがない。それは神的性質に属し、それ自身において一であり、いかなるものとも似ていない」と。この人だけが持っているものを、天使であるルシファーは持っていなかった。それゆえ彼は、自分を持ったまま神になろうとするしかなかったのである。
 エックハルトは語る、「あなたが自分自身をほんの一瞬でもいや、さらに短い間でも、無にすることができれば、そのあるものがそっくりそのままあなたのものとなるであろう。あなたが自分自身に、あるいは何らかのものに、どんな仕方でも心を留めているかぎり、わたしの口が色を知らず、目が味を知らないように、あなたは神が何であるかを知ることはない」と。自分を捨て、この自分の中の「あるもの」をつかんだとき、私は私を超えて、神と一体となる。しかし、そのとき私は消え去るのではなく、依然として神との間で「我と汝」という関係に留まるのである。それゆえに、一性という言葉が語られる。これは、「我と汝」という独立した二つの対象の間の関係である。というのも、「我」がなければ「汝」もなく、「一性」もまた無いからである。「わたしたちがまさにこの一性でありますよう、またこの一性を保てますよう、神がわたしたちを助けて下さるように。アーメン。」

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