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2010/02/04

自分自身を脱ぎ捨てるということについて

 「人は自分自身を捨て去ることにより、キリストと、神と、浄福と、神聖とをみずからの内へ迎え入れるのである」とエックハルトは言う。しかし、自分自身を捨て去ると言っても、そこになお自分の部分として何かが残されるということが必要であろう。そうでなければ、自分のすべてが他の場所へ移っただけということになってしまうから。そこで、自分自身を捨て去った後には、自分の抜け殻のようなものが残されることになる。それは、いったい何だろうか。
 「魂の内には、ひとつのあるものがある」とエックハルトは言う。「それには名がなく、いかなる固有の名も持たない。それは有るが、いかなる固有の有も持たない。というのも、それはあれでもなく、これでもなく、ここにもそこにもあるということができないものだからである」と。そこで、それはまさに抜け殻と呼ぶにふさわしいものかもしれない。しかしこの抜け殻は、すべての点で、神に造られた理想的な人性を保持しているとエックハルトは主張する。それは、実にキリストの人性そのものでもあるのである。
 私たちは、生来の意識的な自己によって活動しているので、自分で意識できる五感や感性、知性等が自己の総体だと思い込んでいる節がある。しかし、心理学的な見地から言うと、私たちが自覚している部分は、実は氷山の一角に過ぎず、むしろ意識下に沈んでいる部分が非常に大きいのである。これによれば、「自分自身を脱ぎ捨てる」ということが文字どおり、服か何かを脱ぎ捨てるくらいに、造作無いことのようにも思えてくる。
 そのような意味では、「捨て去るべき自分自身」とは、私たちが生まれてから現在までの短い人生を生きる中で身につけた知識や物事の考え方と言うべきかも知れない。それらは、時間性の中で培われてきた。しかし永遠の世界には、時間というものは存在しない。預言者は「時が満ちると、御子が遣わされた」と語っている。この「時が満ちる」とは、エックハルトによれば、「時間が永遠の内へと入るとき」である。それは、つまり私たちが時間から解放されることであり、その結果、ものごとの評価や戦略からも解放されることになる。それは、単に時間的な思考を無視するということではなく、永遠の視点に立つということである。永遠に渡って変わらないものは、どのように周到な戦略にも屈することがない。世の人々は、この世界を賢く生きようとして様々に戦略を錬る。考えに考え抜き、人の思いの裏をかく者が勝利を得るというのがこの世界の常識になっている。しかし、必ずしもそうはならないこともある。賢い人は、また様々な誘惑に惑わされることもあり得るし、人は完全ではないので、どこかに隙が生じて、そこから失敗に陥ってしまう可能性を常に抱いている、否、実際は隙だらけなのである。しかし、永遠の思いに立つ人は、決して失敗せず、いつも神の御心のみを行う。神の全能性は、この永遠の視点、すなわち時間の超越によっているのであり、神は人の裏の裏をかいてその全能性を発揮するのでも、周到なる配慮によって、すべてのことに対応するのでもない。神はむしろそれらのことを考えたりなさらない。そうではなく、逆にこの世界に起こってくるすべてのことは、永遠の世界の反映なのである。そこで、この世界に生起する物事や現象よりも、永遠の世界は常に先んじているのであり、その永遠の現実をつかむ者は、すべてに対応し、すべてに勝利するのである。
 しかしこの永遠の現実をつかむためには、人は自分自身を捨て去り、脱ぎ捨てなければならない。例え一度自分を捨て去って、この永遠の現実をつかんでも、その人が再度自分を拾い返すならば、その時点で彼がつかんだ永遠の現実は、現実でなくなってしまう。そればかりか、彼のつかんだものは、最初から永遠の現実ではなかったことになるのである。永遠とは、そのようなものなのである。そして、あなたが常に、どんなときにも、この永遠の現実の中にあるようになるためには、「時が満ちること」が必要なのである。
 エックハルトは語る、「そこでは一切の時間が終わりを告げ、そこには以前も以後もなく、一切が現在である。そしてこの現なる直観において、わたしは一切の事物をわたしの所有となすのである。これが『時が満ちる』という意味である。そのような正しいあり方にわたしがいたれば、わたしは真に神の独り子となりキリストとなるのである。この『時が満ちる』ところにまで、わたしたちが到るよう、神がわたしたちを助けてくださるように。アーメン」。

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