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2010/02/03

神の子の誕生について

 「これまでに神が人間に分かち与えた最大の救いは、神が人となったということであった」とエックハルトは言う。十字架の購い、苦難、復活、教え、これらはみな主イエスの受肉によって実現したからである。しかし、受肉にはさらに他の意味がある。それは、それにより、神と人との関係が変化したということである。つまり、主イエスが人となったことにより、神が私たちの父となったのである。福音主義は、人の救いに焦点を置く。しかし神秘主義は、神と人との関係に注目する。それは、自分自身の内に、何か根本的な変革を期待しているのであり、それは、失われた人間の栄光の回復でもあるのである。
 この神と人との関係は、父と子の関係に留まらない。それは主イエスにおいては、花婿と花嫁の関係なのであり、世の中にこれ以上親密な関係はない。「二人は、一体となる」と言われているのだから。つまり、これによれば、私たちは単に「神の子」であるに留まらず、「神の独り子」でさえあるのである。そこで私たちは、自分の信じていることをよく理解する必要がある。主イエスが「あなた方の天の父」と言われた意味は、すなわち「私たちは神の子」だということである。そして、私たちが文字どおり神の子だとしたら、そのときは、私たちは、すべてを知ることになるのである。今まで知らなかったすべてのことを、知らせられないでいたこと、知らずに済んでいたこと、知ることに耐えられなかったこと、そしてもしかしたら、知らない方がよかったかもしれないこと等々である。それらはいったい何を意味するのか。それは、実にあなたとはいったい誰なのかということなのである。というのは、あなたがそれを知るとき、あなたがこれまで、何をしてきたのか、何をしてこなかったのか、これからどうなるのか等々が明らかにされることになるからである。
 そのようにして、多くのことがつまびらかになるだろう。そしてそれはつまり、それらが過ぎ去ってしまうことを意味する。つまり、この時間性の内で起こったこと、起こらなかったことについて、最終的に決着が付く、すなわちそれらが裁かれることになるのである。しかし、時間の内にはなかったこと、すなわち永遠の事柄については、過ぎ去るということはない。永遠のことがらとは何だろうか。私たちに開示された永遠のことがら、それは、三位一体のみである。礼拝も愛もすべて三位一体から発するのであり、父と子とその間に発出する聖霊の三者関係こそが私たちの知る限り、唯一の永遠なるものである。この三位一体は、それ自体に動きを懐胎している。つまり、父が子を生むという働きである。それは一つの業であり、動きでありながら、また永遠に続くものである。つまり、父は永遠に父であり、子は永遠に子であり、父は子を永遠に産み続けており、子は父から永遠に誕生しつつあるのである。この永遠の業から時間の内のすべての業、すなわち魂が流出し、万物もこの大いなる流出の内にある。私たちが肉体で経験する誕生という業は、時間性の内で生起し、それは過ぎ去りゆく一度きりのことがらである。しかし、私たちはまた、信仰により私たちの心に御子が誕生することにおいて、天の父から万物を相続する。これは、永遠性におけるできごとである。このように、私たちに開示されている三位一体という真理は、それ自体永遠のことがらでありながらも、この時間性の内にある過ぎ去るべき事柄に対応しているのである。しかし、永遠の内には、また私たちに開示されないことがらがある。それは、この世界においても永遠の世界においても、決して開示されることがない。なぜであろうか。そこには、概念というものがないからである。そこでは、すべてのものが一つであり、区別というものがない。そこでそれらは、開示されるということもまたないのである。そして、それが私たちに開示されないばかりか、三位一体の神ご自身ももはやそれを認識しないとエックハルトは言う。というのもそれは、知るとか認識するとかいうことを遙かに越えたものだからである。そこは、すべての存在が出て来た宝庫であり、またそれらすべてが再び戻りゆくところの宝庫でもある。というのは、そこから出てきたのは、再びそこへと戻るためだったのであり、それらは一つのことだったのだからである。エックハルトは語る、「この宝庫とは、秘められた父性の静粛な闇のことである。彼が歩み出たのは、その最も高き場からであり、その最も純粋な場の内へと彼は再び歩み入り、その秘められた神性の隠された秘密をそこで彼女に明かそうとしたのである。そこで彼はすべての被造物と共にみずから安らぐのである」と。

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