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2010/01/26

一なる神について

 「神は、一なるものである」とエックハルトは言う。「一なるもの」とは、「分けられない」ということである。つまり神は、分けて考えることも把握することもできず、言わば全体をいっぺんに把握しなければならないのである。これは、科学万能の時代に生きる私たちには、理解し難いことである。というのは、科学的な探求は、部分的な情報を集積させながら、演繹的に知識を形成していくという方法をとるからである。しかし、神について知識を得る、すなわち神を知ろうと思うのなら、そのような科学的探求の方法論をすべて捨てる必要がある。
 それでは、どのような方法によるべきなのか。エックハルトの提示する方法論は、次のようなものである。すなわち、「すべての身体的事物から分かれ離れ、自分自身の内に集中し堅く身を閉ざすこと、そののちこの純粋さから神の内へとみずからを投げ入れ、そこで神とひとつになること」である。つまり、神を知るためには、神の内に入る必要があるのだが、その際に何も連れて行くことも携えて行くこともできない。自分以外のものをすべて後に残して、言わば裸一貫になって神の元へ行くしかないのである。というのも、神が一なるものであるゆえに、もしその内に入るということがあるなら、そのときは自己の全体がその内に入る必要があるのである。しかしそのときに、何かを一緒に持って入ろうとするなら、その人はその持っている物の一貫性をもまた保証しなければならない。しかし人は、自分以外の物については、その存在性に関する十分な知識を持つことはできない。そこで人は、それらの物を自己の背後に置き去りにしなければならないのである。主イエスが、お供をすることを願った青年に、「あなたの持ち物をすべて売り、その代金を貧しい人々へ施し、その後に私について来なさい」と言われたとき、このことを言われたのである。
 しかし、ここに一つの問題がある。それは、何も持って行けないというまさにそのことに起因するのだが、人がそこに何ものも持ち込まないならば、判断の基準となるものもまた何も無いからである。つまり私たちは、神を何の基準もなしに、何の拠り所もなしに把握しなければならないのである。したがってそこには、良い悪いという区別もなく、何のためにという理由や何故にという動機もまたない。私たちのすべての目的は神であり、それ以外にはないからである。
 以上は、私たちの魂の内の純粋に知性的な領域における事柄である。しかし私たちは、実際はこの世界の内で様々な事物と関わりを持ちつつ生活している。そこにおいては、様々な判断や計画も必要とされるのであり、それらのことから私たちは逃れることはできない。かの純粋に知性的な領域においては、魂に向けて「一なる神」という言葉が語られたが、今、移りゆく、何も確固としたもののないこの世界においては、魂に向かってそれとは異なる言葉が語られる。すなわち「友よ、もっと上に進みなさい」と。「神は、全神性の一なる父である」とエックハルトは言う。神はイエスにおいて、永遠に私たちの父であるが、父と私たちの関係自体は、ダイナミックな運動の中にある。つまり、すべてのものは、父から生まれたことにより、父に似たものとなることを目指して運動しているのであり、神は恩寵により、私たちを助けられるのである。しかしその際、「恩寵はいかなるわざも働くことはない。恩寵はむしろ魂の内へと一切の誉れを注ぎこむだけである。これが魂の領域における豊かさなのである」とエックハルトは語る。私たちがこの世界において到達し得る最上の場所、それは、「友よ、もっと高く登りなさい」というこの向上の運動なのである。そして、私たちがこの運動の中にあるとき、私たちはまた、神の恩寵の内にあり、かの純粋な知性界においては、永遠の浄福の内にあるのである。エックハルトは語る、「魂より以下のすべての事物の内で、もっとも高貴なるもの、もっとも純粋なるもの、もっとも高きもの、それを神は同時に魂の内へと注ぎこむのである。神はすべてでありそして一である。わたしたちがこのように神と一なるものになるよう、わたしたちを『一なる神にしてすべてのものの父』が助けて下さるように。アーメン」。

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暗号の書

「イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストにお与えになり、そして、キリストがその天使を送ってその僕ヨハネにお伝えになったものである。」  ヨハネの黙示録1:1
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 ヨハネの黙示録は、暗号で書かれた書である。それは、パトモス島へ流刑になっていたヨハネが、当時のキリスト教への迫害の中で、信者たちへ秘密のメッセージを送るために用いた暗号による手紙なのである。
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■■ そうじゃな~い! ■■
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 いったいどこからそのような奇々怪々な解釈が生まれてくるのか。それは、それを主張する者の虚栄心の成せる業であり、その裏には、神の言葉を薄め偽って、その真意を曲げようという意図があるのである。
 この手紙を読むと、ヨハネがキリストの敵に対して、激しい敵対心を持っているのが如実に分かる。そしてそれは、キリストの敵にとっての直接敵な批判であり、これがあるかぎり、いくら暗号を用いて書いたとしても、その手紙が敵によりどのように取り扱われるかは火を見るよりも明らかである。もしヨハネがこの手紙を秘密裏に仲間に届けたいと思ったなら、けっしてそのような表現をとらなかったに違いない。それに、この手紙が暗号だという人は、どこを指してそのように言うのだろうか。この手紙は、黙示であり暗号などではない。つまり、暗号を解く為には、どうしても鍵が必要となるのだが、黙示は、その開示されている部分については、一般的な歴史観や知識によって解けるように助言されている。しかし、開示されていないところは、どのようにしてももはや解くことができないのである。「この方が開けると、誰も閉じることなく、閉じると、誰も開けることがない」と書かれている通りである。
 それゆえ私たちは、この手紙が暗号だなどと言うことのないように気をつけよう。そうでないと、私たち自身が、この手紙の内容を受け取る勇気を持たない者、それを好まない者、すなわちキリストの敵となり、それにより、まさにこの手紙の最後に書かれているような災いを加えられることになるかもしれないから。

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