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2010/01/25

ヤベツの祈り

『ヤベツは兄弟たちの中で最も尊敬されていた。母は、「わたしは苦しんで産んだから」と言って、彼の名をヤベツと呼んだ。またヤベツがイスラエルの神に、「どうかわたしを祝福して、わたしの領土を広げ、御手がわたしと共にあって災いからわたしを守り、苦しみを遠ざけてください」と祈ると、神はこの求めを聞き入れられた。』
 歴代誌4:9,10
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 ヤベツは、不孝な境遇に生まれ育ちながらも、自分の状態に絶望することなく、返ってイスラエルの神に望みを置き、期待をもって祝福を願い求めた。それゆえに神は、その願いを聞き入れ、彼に大きな祝福を与えられた。現代を生きる私たちも、まさにこのヤベツのように、自分の生活の祝福、領域の拡大、神の守り、苦しみからの解放等について神に願い求め、それをいただくように励まされており、神がそれを望んでおられるのである。
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■■ そうじゃな~い! ■■
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 この箇所は、マタイの福音書15:21以下に記されている「カナンの女」の物語と同じ位置づけにあるものと見るのが自然である。主イエスがその異邦人の女に哀れみをかけられたのは、後の時代の人々が、それを信仰の教訓として実践するように教えるためではない。それは、ただ神の哀れみの深さを示すためだったのである。それは、そのときの主イエスの置かれていた状況を考えれば明らかであるし、第一この物語により、「クリスチャンは神に祝福を願い求めよう」と提案する人はいない。それと同じように、この歴代誌におけるヤベツの祈りへの神の応答についても、それ以上の意味があるとは考えられない。その理由は三つある。
【第一の理由】ヤベツはユダの子孫とは言えない
 ヤベツは、ユダの系図の中に入れられているようにも見えるが、実は必ずしもそうとは言えない。系図には、「誰々には、誰が生まれた」という行があるが、ヤベツにはそれがない。彼の前後で、系図は点線のように途切れているのである。しかも2章の最後には、「ヤベツ」が地名として出てくる。そこで彼は、もしかしたらその地の土着民だったのかもしれない。それゆえ、「彼がイスラエルの神に祈ると」とわざわざ記されているのだろう。いずれにしても、ヤベツはユダの系図に明示的に入れられてはいないのであり、旧約聖書における信仰上の注目に値しないのである。また、彼の母は苦しんで彼を生んだが、彼は努力して有力になり、兄弟たちの中で最も尊敬される人物になった。信仰的でない者が有力になった。その彼が神に、願い求めたことは、自分の地位がさらに確固たるものとなることであったのだ。
【第二の理由】ヤベツには功績がない
 彼が神から祝福を受けた後に、どのような神の栄光を表したのか。「無い」、まったく無いのである。しかし、聖書の中にそのような、神から祝福をもらいっぱなしの信仰というものがあるだろうか。それは、やはり考えられない。祝福を受けた者は、必ず神の栄光を表すことにより、神に祝福をお返しするのである。というのは、ここは旧約聖書の世界なのだから。
【第三の理由】主イエスの教えとのギャップ
 主イエスは何と教えられたか。「まず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」と言われたのであった。つまり、信仰の原則は、「自分のために祝福を求める」ということではないのである。もちろん神に祝福を期待するということは良いことであり、その場合に、旧約聖書の祝福の原則をもちろん適用できる。しかし、それにも関わらず、主イエスの教えは、「まず神の国とその義を求めなさい」なのである。それは、主イエスが律法の完成者だからである。律法の要求は、主イエスにおいてことごとく「しかり」となったからである。それゆえ、旧約聖書の「神は祝福を求める者を祝福される」という原則は変わらないが、それにも関わらず、私たちはもはや、自分の祝福を神に求める必要はない。神の祝福は、すべて主イエスを通してすでに私たちに与えられているのであるから。それゆえ、旧約聖書に約束されている、「神に求めよ、さらば与えられん」との祝福の原則は、何も変わっていないのであるが、私たちは主イエスにあって、それ以上、比べ物にならない祝福をすでに受けているのである。それは、神が私たちの父となったということであり、これを差し置いて神に祝福を求めることは、主イエスにおける神の愛を見くびることにつながるのである。
 それゆえ、ヤベツの祈り自体は聖書的(旧約)なものかもしれないが、それを持って「祈り求めなさい」と教えることは、聖書的ではないのである。聖書は、新・旧約聖書併せて聖書だからであり、今日、祈り求めるべきことを教えようとするならば、その新しい意味、すなわち新約聖書を持ってするべきだからである。

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