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2010/01/20

自分の魂を憎むということについて

 「魂から出てこの世界にあるもの、ないし魂からこの世界をのぞくもの、また、魂によって触れられ、外の世界をのぞくもの、それを魂は憎まなければならない」とエックハルトは言う。ここで言われている憎むべきものとは、要するに人の心である。私たちは、それが魂であるかのように錯覚することがあるかも知れない。しかし魂の全体像は、もっと大きく、広いものであり、広さ、長さ、高さ、深さを持つものである。しかし私たちは、自分の魂の深みに意識的に立ち入ることはできないし、その存在を知覚することもほとんどできない。しかしそこには、神が造られた一切の事物の原像が存在しているとエックハルトは言う。そのおかげで私たちは、現実世界においてそれらの事物を認識できるのである。そしてその魂の根底において、私たちは「すべての事物を神の内で、それも、すべての事物があるようなその自然的純粋さの内においてではなく、それらが神のうちにあるような純粋な単純性の内でつかむのである」とエックハルトは言う。
 さらに彼によれば「すべての事物は、それがこの世界にあるよりも、魂たる知性界にある方がはかり知れないほど高貴である」。聖書も「この世界の見えるものは、見えないものから出てきた」と言っている。つまり私たちは、生まれてからこれまで慣れ親しんできた自分の心の領域、意識の領域でものごとを判断するのではなく、むしろエックハルトが言及しているところの魂の根底、新しい知性的世界において判断することが必要なのである。
 しかし、ここに一つ問題がある。それは、やはり彼よれば、その知性的世界は、人間の精神を持ってしては、けっして把握することのできないものだからである。「どんな思惟もそこまでは到達できない」のである。それゆえ、私たちがその知性的世界で活動するためには、霊的な助けが必要なのであり、そのために聖霊が与えられているのである。
 私たちは、聖霊に依り頼み、聖霊によって祈る。そのとき、もはや肉なる体や心を意識しないし、この世界を把握するための五感をも頼りにしない。そのとき私たちは祈りの中で、むしろそれらのものをから遠ざかろうとしているのである。つまり、この世のものを見ようとすれば、かの知性界で活動することが困難になるからである。そこで私たちはときとして、意識して半不随意的な精神状態に自らを置くことがある。神がそのための力を与えられたのである。そのとき私たちの口は、神から与えられる言語を語り、すべてが神に向かって働くことになる。そのとき私たちは、自分の行為についてさえ、何も知ることはない。私たちの魂が聖霊と共に、知性的世界で働いているのである。そこで何が起きているのか、私たちの感性には定かには分からない。しかし、私たちの信仰は、そのことを把握する。神が私たちの魂の祈りを聞いて下さっていることを把握する。そしてやがて、事態が打開され、神により勝利がもたらされたことを知るのである。

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