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2010/01/15

神のために神を捨て去るということについて

 「人が捨て去ることのできる最高にして究極のものとは、神のために神を捨て去るということである」とエックハルトは言う。「神のために」というところに力点が置かれている。というのは、もし神のためではなく神を捨て去るということがもしあるなら、それは躓きまたは不信仰、偶像礼等々となってしまうからである。それでは、「神のために神を捨て去る」とはどういうことなのか。それは一言で言えば、神との最高に成熟した関係に入るということである。「神との最高に成熟した関係」とは、どのようなものだろうか。エックハルトは使徒パウロについて語る、「彼は、神から受け取ることのできたすべてを捨て去ったのであり、神が彼に与えることのできたすべて、彼が神から受け容れることのできたすべてを捨て去ったのである」と。
 それではパウロ自身は、何のために神を捨て去ったのであろうか。それは、神と一つとなるためであった。しかし、神と一つとなるために神を捨て去らなければならないとは、何という矛盾であろうか。それともパウロは、気が狂っていたのだろうか。そうではない。エックハルトは語る、「はたしてパウロはそのとき完全性へと向かう途上についたばかりであったのか、それともすでに完全性そのものの内にあったのか。わたしは、彼は完全性そのものの内にあったとする」と。神との関係において、すでに全き完全性に到達した者は、すべてにおいて神の御心のみを求める。そこで、彼の方から神に望むことは一つとしてない。それは、神がパウロに対して望むことが一つとしてないのと同じである。人が福音により救われた当初は、神を求め、神の御言葉を求め、神の導きを求め、神の臨在を求める。そのように彼の内には、常に神に飢え渇く心がある。それは、彼の内にこの世界への執着がまだ残っているため、そこから神に反逆する心が芽生える可能性があるために彼の心が落ち着かないことによるのである。しかし彼の中に、神にどこまでも従う決心ができると、彼はもはやこの世のものへの執着から完全に解放される。彼の心の内のさざ波は収まり、まったき平安が訪れる。そのような者は、もはや神を執拗に求めることからも解放されるのである。
 「神と一つとなる」、その終局は、神と別れることである。私たちはそれをキリストの内に見る。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。」(ピリピ2:6,7)。キリストにとって、神の御心である「人の救いのために自分を捧げる」こと、そのために「御自身の栄光を捨てる」こと、「神から離される」こと、すなわち「神を捨て去る」こと、そしてその結果、「神から見捨てられる」ことこそが、神と真実に一つとなる道だったのである。そのキリストは言われた、「人がその友のために自分の命を捨てる、これより大きな愛はない」(ヨハネ15:13)と。
 私たちは、この世界の構造をもう一度考え直さなければならない。「得る」とはどういうことか、また「失う」とはどういうことかを。キリストも「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」(ヨハネ12:25)と言われた。それがこの世界の本当の構造なのである。ある人が高価な万年筆を買った。それは彼の宝であり、肌身離さず持っていたのだが、ある日、胸のポケットを見ると、それがなくなっていた。なぜそのようなことが起こったのか、それは実は彼のものではなかったからである。この世界のものを真に自分の物、つまり永久に自分の物とすることはできない。みな一時的に近くにあるに過ぎないのである。しかし、そのような呪縛から解放されるなら、その人は、愛するものを真に自分のものとすることができる。そして真に大切なものとは、その人自身の命である。それが永遠なものになる可能性があるのであり、それが、キリストの言葉の中にあるのである。

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