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2010/01/14

思い悩むな

 「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥を良く見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。」 マタイによる福音書 第6章25~27節
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 鳥が思いわずらわないで生きているように、私たちも思いわずらってはならない。むしろ、今を一生懸命に生きることにより、充実した人生を歩もうではないか。
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■■ そうじゃな~い! ■■
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 鳥が思いわずらわないかどうかなど私たちには分からない。イエス様は、そんなことを言っているのではないし、私たちをけしかけているのでもない。私たちは、まずなによりも、「神の国とその義」とを求めなければならない。私たちが自分の幸福のために生きるならば、思いわずらうようになる。しかし、神のために生きるならば、その必要はないのである。イエス様は、そのように言っているのである。

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純然たる無である被造物について

 「神の最高の意志は生むことである。神が神の子をわたしたちの内に生むまでは、神はけっして満足しない。魂もまた神の子が魂の内で生まれるまでは、けっして満足することはない」とエックハルトは言う。彼によれば、この世界のすべては無なのであるが、もしそこに神の子が誕生するなら、そこは神も魂も満足する場になるという。「被造物は、実に切なる思いで、神の子たちの出現を待ち望んでいる」と使徒パウロも言っている。
 さて、この世界に神の子が生まれるためには、そこに神の恩寵が必要である。そして、魂の内に恩寵が生まれるためには、「時が満ちる」ということが必要だとエックハルトは言う。この「時が満ちる」とは、「時の内で人の心が永遠の内へと移され、一切の時間的事物がその人の内で死するとき」だという。つまり、人が人生を生きる中で様々な苦難や失望を経験し、その結果この世界の人、物、考え、思想、戦略、幸福等々に失望し、ただ神の永遠の御心以外に何も求めようとしなくなるとき、初めてその人の内に神の恩寵が発出し、そこに神の子が生まれるということが起こり得るのである。
 そのとき彼にとって、この世界のものは、文字どおり「純然たる無」となり、時間は意味をなさなくなる。そのとき彼に初めて永遠というものの意味が分かるのである。永遠とはなんであろうか。まずそこには時間が存在しない。永遠では、時間は経過しない。そこでは、すべてが最終決定的に完成しているのである。そこで、そこには知恵も戦略もない。何かが新たに成されるということもなく、過ぎ去るということもまたない。そこでは、生まれることと死に行くことは一つである。そこでは、出ずると入るとは一つである。罪に陥ることと救われることとは一つである。そこでは、失うことと得ることは一つである。そこでは、心で思うことと現実が一つである。そこでは、考えることと行動することが一つである。誰がこのような世界に耐えられようか。主イエスも言われた、「わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう」と。永遠とは、そのようなところなのである。それは、聖書の中にも掲示されている。アダムは罪に陥り、第二のアダム・キリストにより救いが完成した。ヤコブは父イサクの家から叔父ベトエルの家に逃げ、再び元のところへ帰ってきた。イスラエル民族は、エジプトを出て約束の地に入った。ユダヤ人は、故郷を追われて世界中に離散した後に再びカナンの地に戻ってきた。それらは永遠においては、みな一つのことなのである。つまり罪に陥ったのは、救われるためだったのであり、出てきたのは、再びそこへ戻るためだったのである。
 それでは、私たちがそこに行くために、準備として何を成さなければならないのだろうか。何も成すことはできない。何も成さないことが準備なのであり、この世界のものすべてに失望し、もはやそれらと関わりを持たなくなることだけが、そこへ行くための準備なのである。それは、人間的には失望かもしれないが、永遠の世界の観点からは、決して失望でないばかりか、大いなる希望なのである。主イエスも言われた、「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」と。
 「被造物は純然たる無である」とエックハルトは言う。それならそれらは、何のために存在するのか。それは、過ぎ去ってしまうため、忘れ去られるため、無視されるため、あきらめられるためである。「無についてわたしたちが知ることは何もない。そして無とわたしたちが共通するものは何もない。すべての被造物はひとつの純然たる無である。ここにあるとかそこにあるとかいえないようなもの、すべての被造物が忘れ去られたところ、そここそがすべての有の満ちているところである」と彼は言う。私たちが永遠の内にいたころは、すべてのことを知っていた。もちろんこの世界における知とはまったく別の知り方で。しかしこの世界において、私たちは時間の中ですべてのものを知覚するのである。その目的は、すべてをあきらめ、捨て去るためである。ただそのようにしてのみ、私たちは知ることと捨て去ることが一つのことであることを知るのであり、そのようにして、時間から自由となり、永遠の世界とはなにかを知るのである。
 エックハルトは祈る、「時が満ちたとき、そのとき恩寵が誕生したのである。すべての事物がわたしたちにあって完成され、神的恩寵がわたしたちの内で生まれるよう、神がわたしたちを助けてくださるように。アーメン」。

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宿営と行進

第2章

 イスラエル民族は、広野を旅するとき、神の幕屋の周りに氏族ごとにそれぞれの位置を定めて宿営した。まず幕屋を取り囲むようにレビ族が宿営し、その周りを東西南北にそれぞれ3つづつ、合計12の氏族が位置を定めて宿営するように定められていた。まず東側には、ユダの旗印のもとに、イサカルとゼブルンが、南にはルベンの旗印のもとに、シメオン、ガドが、西にはエフライムの旗印のもとに、マナセとベニヤミン、そして北にはダンの旗印のもとに、アシュル、ナルタリがそれぞれ寄り集まって宿営した。その有り様は、空から見ると、さながらに生けるエポデのようであったろう。
 そのことは、どのような意味を持っていたのだろうか。それは、まず第一に、これが天の神殿の雛形だということである。天国に神殿というものがあるかどうかは分からないが、とにかく神を礼拝するなにがしかの構造体があるとすれば、それがこの広野の宿営の形態なのである。それは、エゼキエルに与えられた神殿の幻とも整合する。そこには、東西南北にそれぞれ3つずつ、合計12の門があり、各門にはイスラエルの12部族の名前が刻まれていた。それはまた、ヨハネの黙示録にも出てくる。そのようにそれは、天国における神を礼拝する構造体を表しているのである。
 次にそれは、民族を統率するための組織構造でもある。神は、イスラエルに12人の子を賜った。そしてイスラエル民族を、そこから輩出する12の部族で組織されるのである。そこで、イスラエルの組織には競争原理は存在しない。そこは、そのような人対人の力関係の社会ではない。それは常に、神と人との1対1の社会なのであり、それはアダム以来変わっていないし、これからも永遠に変わらないばかりか、私たちは、そのような神との関係の純粋な実現に向かって動いているのである。
 最後に、広野におけるイスラエル民族の宿営の形は、一つの街すなわち社会であった。彼らは、宿営しているときだけでなく、広野を行進しているときも編隊をくずさなかったのであった。それは、何も目印や通信手段のない広野にあって、ひとつの確立された住所体系となり、それにより彼らは連絡を取り合い、組織としての、また個人同士の連携を確保したのであった。
 このように、古代におけるイスラエル民族の状態は、天上における種々の形象の雛形だったのであり、それはある意味で、私たちが生きている現在をも越えて、遠い未来における完成された礼拝の姿を予表してるとも言えるのである。

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