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2010/01/08

神の根底にまで究めゆく力について

 私たちは、神をどのようにして知ることができるのだろうか。エックハルトは言う「神が知っているすべてを知る人は、神を知っている人である。このような人は神を自分の固有な有において、自分の固有な一性において、自分の固有な現在において、自分の固有な真理において、つかむのである。そのような人にあってはすべてが義とされるのである」と。
 私たちは、神を単なる知識として知ることはできない。それは、私たちが友をそのようには知り得ないのと同じである。私たちが友を本当に知るとは、その人のことを自分のこととして知ることなのである。それでは私たちは、はたして神を自分のこととして知ることができるのか。しかしそれは、主イエスを友として知ること、すなわち彼の受けた苦しみを自分のこと、すなわち自分のためであったこととして知ることなのである。そのときそこには、人間的などのような遠慮もためらいも入り込む余地はない。それが神を自分のこととして知ること、すなわち神を知ることなのである。
 しかしまた、神を自分のこととして知ることは、私と神との区別性をなくすようなものではないばかりか、返ってそれを際だたせるものでさえあるのである。つまり、私が自分のこととして知った神に関する知識の一切は、神のものではなく、文字どおり私固有のものであり、またそうでしかないということである。人がこのことを知り、受け入れるためには、彼は神の前に一個の精神として、無限の勇気を持って立っていなければならないし、そうなるまで、そのように成長するまで待たなければならない。そして神が望んでおられるのは、まさにそのことなのである。もしかすると、晩年の(といってもまだ若き)ボンヘッファーが語った「神の前で、神と共に、神なしに生きる」という言葉も、そのような意味だったのかもしれない。それは、当時のバルトには理解に苦しむことに思われた。しかし、神秘主義的な観点からは、理解できるように思われるのである。
 さて、人が神を知りたいと願うのは、神を愛するためである。そして神を愛するとは、神を満足させ、神から義と認められることだとエックハルトは言う。この義とは、彼によれば、「真理における一切の事物の原因」のことである。この世界の物事は、すべて原因と結果で成り立っている、そしてそれらをつなぐのが時間である。しかし、人がこの世界の現象すなわち結果に着目している間は、彼は真に賢くなることはできない。もし彼が賢くなりたければ、原因の方に目を向けなければならない。ところがそこには、時間というものが存在しないのである。しかし、たとえ時間が存在しなくても、そこには「日」というものがある。エックハルトは語る、「彼のすごした日々において、と言われたとき、そこには少なくとも一日以上の日々があったことになる。つまり魂の日および神の日である。過ぎ去った六日ないし七日前の日々も、六千年前の日々も、今日にとっては昨日のように近いものである。なぜであろうか。そこでは時間は現なる今においてあるからである」と。
 人はみな別々の世界に住んでいる。私たちが同じ時間を共有しているというのは錯覚であり、実際はアインシュタインが言うように、それぞれの状態に応じて時間の経過が異なっているのである。しかし、それらを貫いてひとつの瞬間が存在する。それがエックハルトの言う「現なる今」であり、ここにおいてすべての存在は、神と出会うのである。時間とは、私たちが被造物として神から流れ出る運動なのであり、それがつまり神の世界創造の働きなのである。しかし、また一方で私たちは、太古の昔からずっと神の内に留まり続けている。この遺留と流出において、私たちは、個々に隔絶した時間と空間の中に生まれながら、一つの神の内で生き活動しているのである。そのためには、神ご自身がまた私たちの内に生まれることが必要である。というか私たちは、イエス・キリスト以後は、実に神の独り子として、神から生まれるのだからである。エックハルトは祈る、「わたしたちが自分を、知性の日と時とにおいて、知恵の日において、義の日において、そして浄福の日において、内面に見い出すよう、父と子と聖霊が助けてくださるように。アーメン」。

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