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2010/01/05

知性と意志とについて

 「神はひとつの知性である。すなわちただ自己自身だけを認識することによって生きるひとつの知性である」とエックハルトは言う。そして魂も、この世界においては知性を所有するのであるが、その目的は、神をそのありのままの姿でつかむためなのである。魂は、この世界を生きる中で、神に出会い、神を知り、神に帰依する為に知性を与えられているのである。それでは、この世界を離れた魂は、どのようにして自己を認識するのだろうか。主イエスは、「彼らは、天の御使いたちのようである」と言われたが、ちょうどそのようになるのである。つまりエックハルトによれば、「神の知性とは、天使の有が完全に依存しているものなのであり、天使の有は、その内で自分自身を認識する神的知性が天使に現前しているということにかかっている」のである。すなわち、私たちも天使たちのように、神の知性の内で自分自身を認識するのである。
 私たちが神の知性の内で物事を認識するということは、だれか他の人の知性によって何かを認識しようとするのとは事態が異なる。後者はむしろ不可能なことである。しかし前者においては、神がすべての被造物の内にあるゆえに、神の知性が私たちに肉迫しているのである。それはつまり、伝統的な表現によれば「信仰によって」ということである。信仰は、神の賜物であり、しかも私たちの内にあるものである。しかし、そのとき私たちは、自分のしていることを良く観察する必要がある。そこは、私たち個々人にとって専用の場所なのであり、他人の入り込む余地はまったくない。しかし、そこは紛れもなく神の領域なのであり、そこでは、すべてのものがすでに存在しており、そしてすべてが可能なのである。
 私の言いたいことは、次のことである。すなわち、伝統的な福音的真理の中に、そして比較的新しい福音主義の信仰指針ないしは宣教原理の中に神秘主義的な要素があるということである。そしてそれは、実に神秘そのものなのである。たとえ福音主義が、それを単純な宣教の言葉に置き換えてしまっていようとも、またキルケゴールが指摘したように、それらが繰り返し説教されることにより虚しいものとされたということにも関わらず、それは依然として神秘性を保っており、それを神秘として捉えようとする者に、それは自己自身を開示するのである。
 それは、どこにどのように開示されるのか。私たちの内部にである。魂は、自己の知性の内に閉じこもり、その密室の中で神の言葉を聞くのである。それでは、どのようにして神を見るのか。文字どおりに神を見ることはできない。私たちは自己自身となるのであり、神に似た者とされるのであるが、そこには神はおられない。神に直接に会う必要はないのである。なぜなら、かつて主イエスが言われたように、私たちはすでに神を見たのであるから。私たちと神との間に、それ以上の接近はないのである。エックハルトは語る、「この点にこそこの説教の意味のすべてがこめられているのだが、その人は明けの明星のようでなければならない。すなわち常に神から忘れられることなく、常に神のかたわらにあり、神との近さを等しく保ち、一切の地上の事物から超然とし、そして言葉のかたわらでひとつの譬え言葉としてあらねばならない」と。それは何のためなのか。それは、あなたがあなたのすべてをかけて、あなたの神を愛するためなのである。聖書に書かれているように、「心を尽くし、思いを尽くし、精神を尽くして、主なるあなたの神を愛せよ」と。

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