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2010/01/04

死してある生き方について

 「わたしたちは、あたかも死んでいるかのようにふるまわなければならない」とエックハルトは言う。せっかく生きているものがなにゆえに死んでいるかのように振る舞わなければならないのだろうか。その理由はまず、聖書によれば、私たちは生きているように見えるが、霊的には実は死んだ状態であるからである。この状態から回復するためには、まず私たちが自分の現状を正しく認識する必要がある。つまり自分が死んだ状態であり、そこから霊的に生きるとはどういうことかに思いを馳せる必要がある。
 次に、その霊的に死んだ状態から実際に脱却するために、今度は反対にこの世に対して死ななければならないのである。というのは、この世で巧く生きようとすれば、その人はこの世の様々な存在に意識を集中せざるを得ず、それにより霊的な事柄から引き離されてしまうからである。そこで、霊的に生きようと思うなら、その人はこの世に対して死ななければならないのである。
 三つ目に、この世に対して死んだとき、初めて私たちに新しい命すなわち真の存在性、つまりエックハルトが「有」と言っているものが与えられるからである。この「有」とは、何であろうか。それは私たちにとって、まったく新しい概念である。それはまず、時間から自由なものである。時間の内にあるものは変化し、崩壊の運命にあるからである。またそれは、対立からも自由である。この世のすべてのものは、自己の内に対立関係を持っており、その解決へ向かって動いている。しかし、その対立関係自体が「有」に反するゆえに、そのままでは彼は永遠に完全にされることはない。完全すなわち「有」を目指すならば、彼は自己の内にあるそれらの対立関係自体を脱却しなければならないのであり、それが「自分に死ぬこと」すなわち「この世に対して死ぬこと」になるのである。
 しかし、もし魂が、自己の生きている目的とでも言うべきこの世の様々な事柄に対して死んだとしたら、どのようなことになるだろうか。まず、その人の魂においては、知性も意志も(意識や認識までとは言わないが)意味がなくなるであろうということである。「知性も意志も持たない魂」それが肉体を離れた魂なのだとエックハルトは言う。つまり、魂が肉体を離れれば、もはや成長することはない。その必要もまたその可能性もないのである。そこでは彼は、もはや100%彼自身となっているのである。この状態が彼にとって、最高の理想なのかそれとも最悪の破滅となるのかは、正に彼次第である。すべてが彼の中で完結し、すべてが彼の自由に任せられ、彼はその彼自身によって永遠を生きなければならないからである。もし彼の認識が彼自身の内部にのみ留まるものであるなら、それもそれほど問題にはならないのかもしれない。しかしそこではまた、すべての真理が彼に開示されているのである。それゆえそこに行く前に、絶対の真理であるお方、神の御子が彼に必要だったのである。「魂は一なるものであり、そうすれば魂が神へと帰りゆくことを可能にする力を魂は見つけ出すこともできなくなるであろう。魂は知性と意志とを、魂の働きの内に持つのではなく、魂の根としてのその根底において持つのである」とエックハルトは言う。
 そのとき魂は、自分自身の中で完結しながらも、かの唯一なる有すなわち神の内へと入りゆくのである。そのためには、すべてのものが彼の内で一に帰される必要がある。すなわち彼は、彼が知覚するすべての事物に対しての実質的な関係を獲得する必要があるのである。エックハルトは語る、「魂は、ばらまかれ、運び出されたものを集めるために身体の内で純化されるのである。五感によって運び出されたものが、再び魂の内へと帰りくるとき、魂は一なる力を持つのである」と。彼はそのために祈る、「わたしたちが分けられた一つの命から、一であるひとつの命の内へと入れるよう、神がわたしたちを助けてくださることを、愛する主である神に求めよう。そうなるように神がわたしたちを助けてくださるように。アーメン」。

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