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2009/12/25

ネヘミヤの熱心

ネヘミヤ記 第13章

 エルサレムの城壁の修復が完了し、すべてが昔の姿に戻ったように見えた。そして、それはその通りだった。彼らの罪に傾き易い性質もかつてのままだったのである。果たして、ネヘミヤが所用でバビロンに戻っていた間に、彼らは異民族と混血を始め、神殿における祭儀も行われなくなってしまった。そしてそれは、彼らが苦労して勝ち取ってきたものを一瞬にして失うことだったのである。しかし、彼らはそれに気づかなかった。罪の誘惑は、絶えず繰り返しやってくる。そして、そのたくさんの誘惑の内のたった一つにでも心を引かれるならば、そこから崩壊が始まるのである。そのようにして、ほんの些細なことから、罪は人々の間に広がり始め、やがて聖なる都エルサレムを内部から蝕み、せっかく多くの努力を払って回復した神の恵みを次第に打ち消し、効力のないものにしようとするのである。
 それは、一見するとイスラエル民族の、すなわち人間の弱さに根差したものであるように見える。しかしそこに、その背後に、一つの人格が存在することを見逃してはならない。4節には、「これに先立って、トビヤに縁のある祭司エルヤシブは、神殿の祭司室を任されていたが、かつて人々が穀物の献げ物と香と祭具、またレビ人と詠唱者と門衛のための、規定による十分の一の穀物と新しいぶどう酒、更に祭司のための礼物を納めることになっていたその大きな祭司室をトビヤのために流用した」と書かれている。トビヤはそこで何をしていたのであろうか。しかし、その結果、「レビ人に与えられるはずのものが与えられず、勤めに就いていたレビ人と詠唱者が、それぞれ自分の耕地に逃げ帰っている」のをネヘミヤは発見するのである。また、「ユダで、人々が安息日に酒ぶねでぶどうを踏み、穀物の束をろばに追わせて運んでいる」のを彼は見た。さらには、「ティルス人もそこに住み着き、魚をはじめあらゆる種類の商品を持込み、安息日に、しかもエルサレムで、ユダの人々に売っていた」のであった。
 私たちの日常においても、往々にして罪は犯される。しかし、その背後に一つの人格が存在する。それは、アダムの時以来、私たちに戦いを挑み、常に私たちを罪の中に埋没させ、私たちに与えられている神の恵みを無きものにしようと日夜働いているのである。それは、あのトビヤのように、神の陣営の中に存在することもある。しかし、神の陣営には、神の霊を持つ人、あのネヘミヤのような人がいる。そして、絶えず改革を行うのである。彼は、決して強い人間ではない。しかし、神を愛し、忠実に仕え、いつも教会を見張り、神に指示されたことを忠実に行い、そして神に祈るのである、「わたしの神よ、わたしを御心に留め、お恵みください」と。

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城壁の奉献

ネヘミヤ記 第12章

 エズラの改革が神の民の回復のための働きであったのに対して、ネヘミヤの改革は、城壁すなわち街の回復のための働きであった。街すなわち社会が神のものへと回復する前に、まず人々の心が神へと回復される必要があった。しかし、回復が人々の実生活にまで及ぶためには、壊れた城壁が修復され、それにより外敵から守られ、その内に生活の基盤が築き直される必要があったのである。エルサレムという街は、そういう意味で、神が人と共に住まいされる街であった。そしてそれはそのまま、今日における私たちの信仰生活を表しているのである。
 人が主イエスの救いを受け入れると、自分の罪が自覚され、神への献身の思いが与えられる。彼は毎日聖書を読み、祈り、神を賛美するように努める。そのようにして、彼の心に祭壇、すなわち神殿が築かれるのである。しかしそれだけでは彼の信仰は、生活に根ざしたものになっていない。それゆえ、日常の様々なできごとに遭遇するとき、彼は心を惑わせたり、対応に苦慮したりせざるを得ない。しかし、朝起きたら一番に神を賛美するということが彼の日課の一つとなるなら、彼はその一日の始まりに大いなる力を受けて出ていくことになる。同様に、通勤のバスや電車の中における過ごし方や、家族との接し方、職場における態度、自分に与えられている仕事の意味等々についても、一つ一つ神との関係で整理し、位置づけていくことにより、生活に信仰的な秩序が生まれ、それら日常的なことのすべてが彼を煩わせるものではなく、むしろ彼の信仰を立て上げ、麗しい喜びと神への深い献身の基となるのである。これが、彼の城壁すなわち街が回復されることなのである。そのようにして、私たちの存在すべてが神のものとなり、すべてが最高のもの、感謝と賛美に満ちあふれるものとなるのである。そうなるために私たちは造られたのである。
 ネヘミヤは、城壁の奉献に際して、イスラエルの主だった人々を二つの楽隊に分け、一隊を右から、もう一隊を左から城壁の上を、賛美を歌いながら行進させた。それはまったく、そうするのが自然なことだった。彼らの生活の場所すべてがそのように賛美と感謝に満ちあふれたものとなったからである。彼らは、歌いながら城壁の上を行進しているときにそれを実感したのであった。イスラエルの神が哀れみと恵みに富み、すべての人の賛美と礼拝を受けるにふさわしいお方であることを。

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