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2009/12/22

なぜという問のない生き方について

 人は誰しも最高の人生を求めている。そして、いろいろな書物を読み、先人たちの教えに聞き、友の生き方を見倣い、さまざまに模索する。しかし、生き方を探求することと、実際そのように生きることの間には雲泥の差があるとエックハルトは言う。これは、信仰者にとっても切実なことである。というのは、それが私たちが信仰生活を生きる姿勢に関わってくるからである。
 たとえば、福音派においては、主イエスによる救いは、いわば自分の外でなされたことである。そして自分は、詳細は定かではないが、結果としてその大いなる救いの中に入れられたのである。しかし、そのことがその人の人生を何一つ変えることがないとしたら、彼は本当に救いに入れられたと言えるのだろうか。彼は、事実福音を聞いたのだが。しかしエックハルトは語る、「神は単に人となっただけではない。むしろ、神は人としての本性(人性)をとったのである。・・・キリストがわたしたちに告げ知らせたこの浄福こそ、わたしたちのものだったのである」と。つまり、キリストの救いは、「あなたの罪は赦された」という単なる宣言に留まるものではない。それは、実質的に私たちの人生が大転換し、それがついにキリストの人生となることなのである。そのためにはそこに、福音を聞き、それを受け入れること以上のことがなされなければならない。しかし往々にして、人が新しいことを始めるのは難しい。古い自分を克服するのは至難の業である。人類の歴史がそれを立証している。しかしエックハルトによれば、そこにあるのは、克服ではなく「発見」なのである。「発見」それ自体は、外的なことではある。しかし、それが自分自身の内部に関わることであるとしたら。事実それは、その人の人生を劇的に変革するものとなり得るのである。
 つまりそれは、「自分はなぜ生きるのか」ということであり、その証しが自分の内にあるのである。それは、すでにあるものであり、新たに造るのではない。それは、永遠の昔からあるものであり、ある時に作られたものではない。つまりそれは、非被造的なものなのである。しかしそこに至るためには、私は自分の被造性から離れなければならない。エックハルトは言う、「被造物の終わるところ、そこは神の有が始まるところである。神があなたに切に願うことは、あなたが、自分の被造物としての有のあり方にしたがって、自分自身より離れ、あなたの内に神を神としてあらしめることである。これをおいて他にはない」と。私が被造物であることの目的は、私がその被造性を捨て、それから離れることだったのである。被造性は、それが造られたものであるゆえに、それを捨てることができる。そして、そのときそこに残されるのは、被造的には無なのだが、この被造的な無こそ、非被造的な有なのだということがエックハルトが主張することであり、また聖書が主張することでもあるのである。だがそれは、はたして可能なのだろうか。しかしキリストは言われた、「友のために自分の命を捨てる、これより大きな愛はない」と。そしてキリスト御自身が、ご自分の命を捨てて私たちを救いに入れられたのである。それからどうなるのか、エックハルトは続けて語る、「神のためにあなた自身から完全に離れよ。そうすれば神はあなたのために自分自身から完全に離れるのである。この両者が共に離れるとき、そこにあるのはひとつの単純な一である。この一なるものにおいて、父はその子を最内奥の泉に生む。そこに聖霊が咲き出で、そこにひとつの意思が神の内に湧き出でる。この意思は魂に属するものである」と。なぜこの意思が魂に属するのか。それは、意思とは時間の中にあるものだからであり、神自身は時間の外に存在するからである。エックハルトは、この意思を「高貴な意思」と名付ける。というのは、この意思は、それ自身時間の中にあるものでありながら、永遠に変わらない意思だからである。それは、神の心から出た意思であり、キリストが持っていたものである。そして、この「高貴な意思」から、「なぜという問のない生き方」が生まれる。かつて、アダムが神に造られたとき、彼はこの意思を持っていた。しかし、彼の意思が被造物の方に傾いてしまったことにより、彼はこの「高貴な意思」を失ってしまった。それ以来、それは2度と戻って来ないのである。しかしエックハルトは断言する、「この意思がみずから自身とあらゆる被造性とから、ほんの一瞬だけでも、はじめの根源へと帰還するならば、その意思は、その本来の自由なあり方にたち帰り、自由となり、そしてその瞬間、一切の失われた時間が再びとりもどされる」と。「ほんの一瞬だけでも」、そこへ至ることができれば、そこから永遠が始まるのである。彼は語る、「ここにおいて、神が神自身のものによって生きるように、わたしはわたし自身のものによって生きる。たとえ一瞬たりとも、この根底をのぞき見たものには、千マルクの純金硬貨といえど、偽造一ヘラー銅貨ほどにしかすぎないものとなる。あなたは、この最内奥の根底から、あなたのわざのすべてを、なぜという問なしに、なさなければならない」と。

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魂の内にあるひとつの力について

 「魂は、神が力をもって思いのままに支配しようとする神殿である」とエックハルトは言う。そして、そこを支配される神が神秘なるお方であるのと同様に、人間の魂もまた神秘な存在なのである。というのも、魂は神がご自身に象って創造されたものであり、神と共に働くための聖なる力を持っているからである。
 魂の神秘的な力の第一は、主イエスをお迎えする力である。というのは、主イエスは、ほかでもないご自身の場所に来られるのだからである。神ご自身の場所、それは聖なる場所である。しかし、魂が主イエスを迎えるためには、魂は神から創造された本来の姿であることが求められる。それは神秘であり、知性の創造力の及ばないところにある。それゆえそこへ至るには、神秘主義的なアプローチが必要となる。その方法論は、まず自分の知性的な活動をすべて断念し、聖霊の導きのみを求めることである。しかし福音主義においては、「聖霊の導きを求める」と言った場合、聖書を読み、それにより得た知識を基に自己の知性で探求することを意味する場合が少なくない。しかしエックハルトが教えるのは、自分の知性による探求を一切あきらめ、文字通り聖霊だけに依り頼むことである。それには勇気が必要である。キルケゴールが主張した、神の前に一個の精神として立つ勇気である。そして何も持たず、何の知識も前提にせず、ひたすら待たねばならない。神が語られるまで。神と交わりを持つために、これ以外の方法はない。これ以外の方法で手に入れた知識は偽物であり、まやかしに他ならない。そこには、種も仕掛けもないのだから。
 魂の神秘的な力の第二は、神を自ら生む力である。第一の力は徹底して受動的であったのに対して、この第二の力は、徹底して能動的である。しかしこの第二の力は、先の第一の力の上にしか働かない。つまり第一の力を持たない者は、また第二の力を持つことも決してないのである。第二の力は、どのようにして第一の力から派生して来るのだろうか。まず、主イエスを心に迎えるために、魂は処女性を身にまとわなければならない。それは、この世に対して死ぬことを意味する。そのようにして、そこにすべての可能性がなくなるとき、すなわち、神により造られた魂の被造物としての機能、性質、可能性が魂自身の意志によって無に帰するとき、そこに「神の形という非被造性」が光を放ち始めるのである。それが神の形であるためには、そこに不純物の混入は許されない。エックハルトは語る、「しかし魂が純粋無垢な光のうちへと入り来るとき、魂は自分の力ではもはやその被造的な有にひきかえすことができなくなるほどまでにその被造的有から遠ざかり、魂の無のうちへと転ずる。すると神はその非被造性によって魂の無を支え、魂を神の有のうちで保つのである。魂はみずから無となり、神が魂を支えるまでは、自分自身では再び自分自身に帰り来ることができなくなるほど遠くまで離れ出る。これは、どうしてもそうでなくてはならないことなのである」と。そのように「一粒の麦が地に落ちて死んだ」とき、そこに新しい命、すなわち「非被造性」への入り口が開かれるのである。
 この新しい命の内で、魂は神と共に自ら神を生むのだとエックハルトは言う。つまり、そこで働いているのは、神の業なのであるが、同時に魂が自分で行う業でもあるのである。「ここにはだれも言葉にして言い表わしえないほどの心の喜び、はかり知れないほどの大きな喜びがある。なぜならば、永遠なる父がその永遠なる子を絶えまなく生み続けるのは、この力によるからであり、この力が父の唯一なる力のもとで、父の子を父と共に生み、自分自身をその同じ子として父と共に生むのである」と彼は言う。そこでは、すべてが想いのままに生起する。そこでは、生むことはむしろたやすいことである。しかし、何を生むかが問題となる。そこでは、人が悪い思いを持っていたら大変なことになる。その悪い思いが文字通り生起するからである。しかし良い思いを持っていたら、すなわち彼が神を心に持っていたら、彼が生むのは神と御子、そして自分自身なのである。
 そして、魂の神秘的な第三の力は、エックハルトが「魂の城」と呼ぶものであり、それ以外にそれを呼ぶ名は考え得ない。というのはそれは、それ自体動くことがなく、そこへ入ることは誰にもできないからである。実に「神がその位格のあり方と固有性において存在するかぎり」神もそこへ入れないし、その中を覗くことさえできない。そこは、先の第二の力と異なり、不動の世界なのである。エックハルトは語る、「というのもこの根底は、みずからの内で不動な、ひとつの単純なる静けさだからである。しかし、この不動性によってすべての事物は動かされ、それ自身において知性的に生きるあらゆる命が受け取られるのである」と。

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