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2009/12/20

魂という神殿について

 私たちは、主イエスの十字架の購いによって罪を赦され救われ、天国へ入ることを許された。それが福音である。しかしそれは何か、こう、髭をはやした気むずかしい顔の神様がいて、主イエスのゆえに私たちへの怒りをなんとか鎮められた、というような擬人的なできごとなのだろうか。もちろんそういうことでもあるのだと思う。というのも、聖書の神は人格的なお方であるし、私もそれを疑ったことはないから。
 しかし、たとえ神の方で私の罪を赦して下さったとしても、私の心が依然として悪いままであるならば、私は本当に天国に行けるという確信を持つことができるだろうか。そしてまた、たとえ天国に入れたとしても、そこで充実した生活が送れるだろうか。そのように考えると、福音派が堅持してきた「聖書のみ」、「福音のみ」という旗印に一抹の不安のようなものを感じるのは、私が不敬虔だからなのだろうか。実のところ、どうも最近では、そのようには思えなくなってきているのである。というのは、教会の礼拝で語られる説教を聞き続けながら、どうもこの自分の中の変化というか、再創造というか、改心というか、そういう新しい現象がいま一つ必然的なところに位置づけられていないように思えてしょうがないのである。救われて神の子とされても、依然として罪を犯してしまう危険の中に取り残されている自分、それをある程度必然として見ているように思える教理。
 ところで、ユダヤ教を含む古来の宗教には、明文化された教理と共に密儀の要素があったらしい。そういえばイエス・キリストも生前、弟子たちにそのような事柄を教えるためには譬えを用いられた。しかし福音派は、「聖書のみ」を旗印にした万人祭司主義により、この密儀の部分をすっぱりと切り捨ててしまった。これは、やはり間違っていたのではないか。たとえば、神というものを捉えるために、父、子、聖霊という3つの位格が提示されるのだが、それらのどれ一つ取っても単独では神そのものではない。強いて言えば、それら3つが同時に神なのであり、そのようなことは、人の理性では到底理解できないものである。この難解な教理の上に組み立てられた福音のストーリーは、信仰全体からみると御子による購いに関することすなわち宣教に関わる部分なので、まだ理解し易い。しかし、それが信徒生活に立ち入るようになると、さらに父なる神と聖霊が加わってきて、一挙にその難解な部分に直面してしまい、先に進めなくなってしまうのだ。しかし福音主義は、あくまで「聖書のみ」を貫こうとし、上記のような困難なことを困難であると認めることを好ましく思わない。そして、あたかもそれらが自明であるような説明を始めるのである。そして、信徒もそれにいつしか慣らされて、徐々にこの世から遊離して行ってしまうように思えるのである。それは、神秘的なことを無理に自明なこととして取り扱ったために、バランスを崩してしまったのだと思う。
 私がエックハルトの神秘主義的なアプローチに引かれる背景には、たぶんこのような福音主義のある種の不自然さがその根底にあるのだと思う。しかし、神秘主義というものは、密儀とはまた少し異なっている。というのは、密儀はとにかく何か伝えるべきものを持っている。ただし、その持っているものが、誰に、どんな時に、どんな方法で伝えても良いというようなものではないゆえに、それを伝える機会を探し求めているのである。それに対して神秘主義は、何かこれを伝えたいというようなものを持たない。強いて言えば。それは永遠に探求なのである。つまり、求めるべきものの在処を示すだけなのであり、そこへの到達方法を教えるのである。しかし、それはあくまで「到達方法」であり、真理そのものではない。そして、そこへ到達できるという保証もまたないのである。神秘主義では、真理というものをそのように捉えるのである。
 この真理の捉え方は、もしかしたらキリスト教にも馴染むのではないかと思う。つまり、神秘的なことをまさに神秘として取り扱うということである。神秘とはなにか、それは、神の御子イエスである。彼は、まことの神であり、まことの人である。これ以上の神秘があるだろうか。そして、その神秘は今も私たちの前にあるのである。私たちはそれを体験することができる。主イエスは、私たちの心の扉を叩かれる。そして、私が扉をあけるとき、私の中に入られるのである。私は、主イエスをどのようなお方としてお迎えするのか。神秘なお方としてである。彼が私の心に来られるとき、私のすべては、その神秘の前に沈黙する。彼は、言葉を語られる。それは、まさに神秘である。私のすべてはその声に耳を傾ける。それは、いままで私が聞いたことのなかった言葉である。「父の一なる言葉」、それを彼が私に向かって語られるとき、私のすべて、魂と霊と肉とは、その言葉の前に沈黙し、服従する。それは、隷属であろうか。然り、いや同時に自由である。完全な自由。罪と反逆からの。そして、あらゆる無知からの。それは、忘我であろうか。然り、いや同時に覚醒である。新しい命への、新しい真理への。それゆえ、それは神秘以外の何ものでもない。それは、受ける前も神秘、受けた後においても、永遠に神秘なのであり、それが主イエスというお方なのである。

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ここにも

Materflower これは、いつだったか、川の土手を歩いていたら、わだちに残った、束の間の小さな水たまりのぬかるみで花を咲かせていた草にちがいない。こんなところにも来ていたのか。ここは、私の家の水道メーターのくぼみである。水の匂いを嗅ぎつけて、そこに根を下ろす。これほどしたたかな生命力を持った草を私は見たことが無い。しかも、あのときはたしか夏の暑い日だった。今は冬たけなわのクリスマスの頃。わずかな日差しの残る間に、さっと花を咲かせて散っていく。何という早業だろう。そして、そこにどんな目的が。しかし、一つ確かなことは、神がこの草に、芽を出し、花を咲かせる環境と時間を与えられ、「咲きなさい」と言われたということだ。

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