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2009/12/14

神に知られる悟り

論述:離脱について

 この「離脱について」という題名の論述は、まさにエックハルトの思想の集大成である。しかし、その結末がこのようにある種倫理的な表現で彩られていようとは、いったい誰が想像できようか。彼は語る、「さて、思慮深い人はみな、よく聞いてほしい。あなたがたをこのような完全性へと運びゆく最も足の早い動物は、苦しみである。キリストと共に最も大きな苦しみに立つ人たちにもまして、永遠なる甘美を多く享受する人などいないからである。・・それゆえ、完全なる離脱に至ろうと願うものは、完全なる謙虚さを得ようと努めなければならないのである」と。しかしここで注目すべきことは、目的はあくまで「離脱」なのであり、苦難や謙虚さまでもがその手段と位置づけられているということである。しかし、「謙虚さ」を求めることそれ自体は、はたして謙虚さと呼べるものなのだろうか。そもそも彼は、「マリアはその謙虚さを誇った」とも言っているが、「謙虚さを誇る」ことがいかにして「謙虚さ」そのものを傷つけず、かつそれ自体がまた謙虚さでさえあるということがはたして可能なのだろうか。しかし実はここに一つの鍵があるのである。
 すなわちエックハルトにとって「謙虚さ」とは、自分の力によって築き上げる「美徳」のようなものではなく、それは実に「与えられるもの」すなわち「賜物」なのである。それゆえ、「謙虚さを得ようと努める」とは、たとえば、そのために修練するといったことではない。もっともエックハルトは修練をも勧めるのだが、それは謙虚になるためではなく、「謙虚さという賜物を神から戴くため」なのである。そして、謙虚さが神の賜物である限り、それは私の功績ではないから、それを求めることも、またそれを誇ることさえ「謙虚さ」を傷付けるものとならないばかりか、そのこと自体が返って「謙虚さ」を高めることにさえなるのである。いずれにしても、エックハルトにとって「離脱」こそが最高の目的なのであり、その他のすべてはそのための手段なのである。
 しかし「離脱」は、いかにして目的となり得るのだろうか。というのは、そもそも離脱には、それ自体の目的などないのだから。しかし「目的のないもの」自体が「目的」となってはいけないということもないだろう。いや離脱は、それ自体の目的がないゆえに、まさに真の目的となり得るのである。というのも、自分の外に目的を持つものは、それ自体が目的となることはできない。しかし、離脱の目的は、その内部にあり、いわばそれ自体が目的なのである。
 かくして、私たちは、離脱が自己の目的となることにより、まったき安らぎに到達するのである。というのも、エックハルトによれば、「神はこの不動の離脱の内に永遠の昔より立ち、今もなお立っている」からである。彼は語る、「ところで、神はこの不動の離脱の内に永遠の昔より立ち、今もなお立っていることをあなたは知らなければならない。さらに、神が天と地とを創造したとき、神の不動の離脱は、あたかも被造物ひとつ創られなかったかのように、創造に少しも関わりを持たなかったということも知っておかなければならない。・・さらに加えて次のようにさえ言いたい。神性のもとにある子が人となろうと望みそして人となり、十字架の苦しみを受けたとき、神の不動の離脱は、あたかも神が人となることさえなかったかのように、そのことに少しも関わることがなかった」と。
 しかしながら、このような表現を聞くとき、私たちはエックハルトの説く「離脱」が何か無味乾燥、無感覚なものであるように感じ、それを求めることが一種の自虐的な行為ですらあるように思えても来るのだが、実際はそうではなく、それはひとえに私たちの精神が偏見から自由になることを目指しているのである。というのは、エックハルトの場合、離脱は「内なる人」の領域のことなのだが、これに対して常に「外なる人」が並行して想定されている。この「外なる人」は、決して無感覚になることがなく、返って現実に直面し、そこから逃げることなく、ありのままの自分を持って神の前に立つのである。この「外なる人」は、常に外界に接していて、様々な影響や制圧を受けながら、それに対応して行動することにより、自己の内的な洞察を拡大し、神の前に掛け替えのない精神として成長して行くのである。そのためには、「内なる人」の開拓すなわち離脱の追求が必要なのであり、この内なる人の安定性により、外なる人が献身という最大の冒険をあえて実施する力を得るのである。
 この「外なる人」と「内なる人」の関係こそエックハルトの思想の中心としての「神と神性」の関係に他ならない。私たちは、離脱により神を突破して神性に迫ることができる。そしてそのとき、永遠から永遠まで変わることのない神の不動の離脱と御子イエスに現わされた神の愛を自分のこととして知るに至るのである。

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