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2009/12/10

神に知られる帰還

神と神性とについて

 「神が天と地、そしてすべての被造物を造ったとき、その際に神は働くことがなかった」とエックハルトは言う。神は、働くことなしにそれらすべてのものを造ったのである。「神は天と地とを、わたしたちが時の流れの中で、これこれが生成せよ、と言うときのように創造したわけではない。すべての被造物はすでに永遠なる言葉の内で語り出されているのであるから」とまた彼は言う。そのように、すべての被造物は永遠の昔から神の心の内にあったのである。その意味では、それらは被造物以前の万障とでもいうべきものであったのであり、その中に人の魂もまたあったのである。
 神はそれから、人の魂の内に永遠なる神のわざを顕した。そして神は、この魂の内に働くご自身の永遠なるわざにおいて、すべての被造物を愛し、また味わおうとされたのである。この永遠なるわざの中で、神は被造物の本性に働く能力を貸しわたす。そしてその本性のはじめてのわざが心というものなのである。この心により、すべての被造物は、その最高の完全性を求めて運動し、天もその実現に向かって急いでいるのである。
 ここで、私たちがもう一度思い起こすべきことは、この世界も人間の心も、神のわざであるということである。それゆえ私は、この神のわざの内ですべての被造物を見ているのである。その意味で、私の目は神の目であり、神の目は私の目、それら二つは共通の認識であり、一つの愛である。しかしここでエックハルトは唐突に語る、「神と神性とは、天と地ほどに遠く互いに隔たっている」と。そもそも神とは何であるのか。それはエックハルトによれば、私たちの魂の内に働く「神のわざ」による神性からの反映なのである。というのは、神性自体を私たちは認識することはできない、「神性のうちにあるすべてのもの、それは一であり、一について人は語ることができない」し、そもそも「神性は働くことがなく、働くべきいかなるものも持たず、神性の内にはいかなるわざもない」からである。そのように「神と神性とは、天と地ほどに遠く互いに隔たっている」のである。そればかりか「内なる人と外なる人も、天と地ほどに遠く互いに隔たっている」のである。というのは、外なる人が動揺しても、内なる人は、それらとまったく関わりなく不動であることが可能だからであり、人は内的な意識を拡大することにより、そのような状態にまで到達し得るのである。
 かく神と神性、そして内なる人と外なる人とは、それぞれ互いに対応しあっているのである。そこで、神性がそれ自体完全で永遠に不動であるのに対して、私の自己がつねに可能的な自己であるがゆえに、私の認識する神もまた私にとって可能的すなわち未完成の神となっているのである。そこでもし私が、私の神を完成させようとするなら、私は、私の内的な認識を拡大する必要がある。しかし、それはまた同時に回帰の方向ともなる。すべては、永遠の昔から神の内にすでに存在したからである。そして、それらすべての被造物が私の住む世界の中で私に向かって叫んだのである、「神が有る」と。しかし、私の神認識が完全になるにつれて、私のそれらの被造物に対する認識もまた完全なものになってくる。そのようにして、私はそれらの被造物をもう一度神の元に返すことになる。それらが永遠の昔から神の内にあったそのような状態にである。そしてこの作業は、私一人で行うわざとなる。エックハルトは語る「わたしひとりがすべての被造物を、わたしの内で一となるよう、その精神的有からわたしの知性の内へと運び入れるのである。すべての被造物が神へと帰りゆくのを用意するのは、わたしだけなのである」と。
 そのようにして、被造物に対する私の認識が神の元に帰るにつれて、私自身もまた神の元に帰ることになる。というのは、もともとこの世界もすべての被造物も私という意識も存在も共に神の永遠のわざに他ならないからである。そして、その完成のときには、もはや私の神認識は不要なものとなる。なぜなら、そのとき私はもはや神の外にいるのではないからである。エックハルトは語る、「わたしが、神性のこの根底の内へと、この基底の内へと、この源流と源泉の内へと帰り来るとき、わたしがどこから来たのか、わたしがどこれ行っていたのかと、私に聞く者はいない。わたしがいなかったと思う者は、そこにはだれもいないからである。このように帰り来たったとき、神は消えるのである」と。

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