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2009/12/09

神に知られる生業

観想的生と活動的生とについて

 エックハルトは、この世界のすべてのものからの離脱を説く。それならば極端な話、人はいっそのこと生まれて来ない方が良かったのだろうか。しかし、いまだ生まれ出ないものがいかにして離脱することができるだろう。つまり、エックハルトが説くのは、離脱を経た完全生への到達であり、それ以外に道はないのである。そこで、人が人生を生き、そこで様々に悩むことにも多いに意義があることになる。彼は語る、「わたしたちが時間の内に置かれたのは、時間の内における知性的な活動を通じて、神に近づき、神に似たものになるためである」と。その目標は、彼によれば「時間を超えること」である。「時間を超えるとは、知性のうちで、絶え間なく神へと登りゆくことであり、しかもそれは、像による表象の区別性においてではなく、知性にかなった命あふれる真理性においてである」とエックハルトは言う。その場合、「生業」というものが重要になる。これは彼によれば、「徳のわざにおいて人が外からなすものではなく、聡明な思慮によって、内からいそしむもの」である。つまり、行いによって義とされるのではなく、人の心の中に、神に受け入れられる愛と真実が形作られ得るのである。「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」と書かれている通りである。
 しかしもし魂が一切の「生業」を持たずに神に近づけられるということがもしあるならば、そのとき「もし何かが手だてとしてその間に入り込むことがあるならば、この魂は悲しみにくれ、その高みに歓喜に満ちてとどまることはもうできなくなってしまうであろう」とエックハルトは言う。マルタは、主イエスの足元に座っているマリアを見て、そのような危険性を感じ取ったのだろう。さらにマルタが主イエスに対して、マリアに立って働くよう命じて下さるように求めたもう一つの理由は、マリアがその場の幸福感の内に立ちとどまったまま、先に進まなくなる可能性をも持っていたからである。かくして「生業」は、人が完全性へと至る際に必要となる。それは、人の魂が神に近づく安全な手だてであるのだが、この世界を苦労して生きるなかでのみ培われるものであり、マルタはすでにそのような状態に到達していたのである。
 さて、主イエスはマルタの名を二度呼んで「あなたは思い悩んでいる」と言われた。しかしマルタが立っていたところは、エックハルトによれば、「思い悩みの直中」ではなく、「思い悩みのかたわら」であった。霊的に鍛錬された魂も、そうでない魂も、外から見れば同じ「思い悩み」の状態にある。霊的に鍛錬されれば思い悩まなくなるということはない。また、苦痛を感じなくなるということもなく、わざから解放されることもないのである。ただ彼は、「思い悩みの直中」に立ちとどまるということはもはやない。「そのような人たちは、事物にごく近く立っているのだが、事物の中に立っているのではなく、それゆえに彼らははるか高く永遠と境を接するところに立つときに持つものと少しもかわらぬものを持っているのである」とエックハルトは語る。そしてその人の置かれたどのような状況にも妨げられることなく、永遠なる光を模範として、すべての業を秩序正しく果たしていくのである。その際、彼らの心を動かしているのは、神から与えられた「永遠の意志」である。この新しい意志が、どのような境遇の中にあっても、彼の心をして不断に神の意志に追従せしめるのである。この永遠の意志をいただくためには、人はまず、自分の意志を神の内で断念する必要がある。そして後に、自分の言葉や振る舞いを一つ一つイエス・キリストの生涯に秩序づけて同じようにしていく必要がある。するとあるとき神がその人の魂の根底にこの永遠の意志をおいてくださる。すると魂は「主よ、あなたの永遠なる意志のなるごとく、わたしにもなさせたまえ」と語るのである。
 私たちは、これらのことをキリストに倣って人生を生きた信仰の先人たちの内に見出す。彼らは、何か偉大なことを成し遂げたゆえに称賛されるのではない。返って彼らの中には、苦難の中に人知れずその生涯を閉じた人々もいる。しかし彼らは、それらの苦難の「かたわらに立っていた」のである。そして、それらの苦難に妨げられることなく、神に感謝と賛美をささげた。それゆえに称賛に値するのである。彼らの生涯がキリストを証ししたからであり、それがこの世界に生を受け、そこを生きる意義なのである。
 エックハルトは祈る、「わたしたちが真実なる徳の修練において、真にキリストに倣う者となるよう、神がわたしたちを助けてくださるように。アーメン」。

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