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2009/12/02

神に知られる放棄

三つの闇について

 「神の教えを受け入れようとする人は、この山の上にまで登らなければならない」とエックハルトは言う。「山の上」とは、「神の高み」であり、そこからは、「被造物の一切は必然的にすべり落ちている」。つまりそこは、この世に存在する一切の像や形象を超え出たところ、エックハルトによれば「精神の最内奥」なのである。そこにおいては、私たちが慣れ親しんできた通常の認識は、まったく役に立たない。そこにおいて私たちは、天使のようにすべてを像も写しもなしに認識する必要があるのである。それは、どのようにして可能になるのか。エックハルトによれば、そのためには、私たちの魂が一切の像を超え出ることが必要なのである。それは、慣れ親しんできたこの世界の形象に別れを告げ、自らの内に閉じこもることである。つまり、自分自身をあえて闇の中に置く必要がある。この闇とは何であろうか。彼によれば、それはまず第一に、この世界のすべてに対して目をつぶり、自らの決意で盲目となることである。それほどに、闇という解放を愛し、それに執着する必要があるのである。第二には、神を見ようとすることにより、この世界が見えなることである。それは、文字通り狂信的なことである。しかし、この信仰の情熱をあえて持たないものは、決して神を見ることはできない。第三にそれは、すべてのものから、すなわち自分の神概念からさえ完全に自由となることである。「天はいかなる光も持たない」とエックハルトは言う。そのときその人の魂は、一切の光を失い、いかなる光もない完全な闇の中に自らを置くことになる。そのとき、「光は闇の中に輝いている」との御言葉の通りに、神の真理の光が輝きい出て、私たちの認識を照らすのである。それは諸々の光を超えた一つの光であり、エックハルトによれば、そのとき魂は、神の像である神の子の内に刻印されるのだという。この刻印なしには、魂は再びこの世界に戻る力を持たない。そして、そのとき魂は、神の内にある小さきものから大きなものに至るまでの何もかもすべてを神の独り子の内で認識するのである。

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