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2009/12/01

杉の木の詩織

Siori ヨセミテ国立公園には、たくさんの杉の木がある。中には、メタセコイヤという世界最大級の杉の林がある。森林には、山火事が付き物だが、アメリカでは、山火事になっても火を消さないらしい。そのようにして、自然淘汰を尊重し、それによる自然の再生力を誘導するという話であった。とても大らかな話で好感を持った。そこで買ったこのしおり、杉の木を薄く削って作られている。たぶんメタセコイヤではなく、間伐材を使っているのだろう。買ったばっかりは、杉の良い香りがしていた。

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神に知られる飛翔

無である神について

 パウロは、ダマスコへ向かう途上で、天から射してきた光に照らされて地に倒れた。そのとき彼は、何も見ることができず、人々に手を引かれてダマスコに着いた。エックハルトは「パウロは、そのとき神を見たのだ」と言う。そして、そのとき彼は、逆にこの世界の物を見ることができなかった。神とこの世界、その両者を人は同時に見ることはできない。神は、この世界から身を隠している。ちょうど昼間に星を見ることができないように。だからと言って、星がないわけではなく、星はいつも光を放っている。神の光も、普段はこの世界の喧騒の中に覆い隠されているのである。しかし、ひとたび神が輝き出るときには、その光は、この世界のすべてを覆い隠す。「パウロは、かの光に包まれたことにより、神以外は何も見えなかったのである。というのも、彼の魂に属するものすべてが、神であるこの光に関わり、専念していて、それ以外には何も知覚することができなかったからである」とエックハルトは言う。
 そのように、人は神とこの世界を同時に知覚することができない。それゆえ、この世界に住む人間は、神を知覚する方法を知らないのである。そこでエックハルトがここで追求するのは、彼独自の神秘的な方法論なのである。彼は言う、「魂が盲目となり、他のものは何も見えなくなったとき、魂は神を見るのである」と。それは、どのようにして実現するのか。再び彼によれば、その力は「思惟」の中にある。思惟は、通常様々なものを思い浮かべる想像力を行使する。それらは、その時点では所詮、想像の産物に過ぎない。しかしエックハルトは言う、「しかし知性がさらに先を求めるならば、知性はこの思惟をさらに越えて進んでいく。知性は周囲をめぐり、そして探す。知性はあちらこちらと偵察しつかんだり、失ったりする。捜し求めるこの知性の上には、さらにひとつの別な知性がある。この知性はそこではもう捜し求めることもなく、かの光に包みこまれた、その純粋で単一な有の内に立つのである。つまり、この光の内で魂の一切の力が高まったのである。もろもろの感覚は思惟の内へと飛翔するのである。これらがいかに高く、いかに測り知れないものであるかは、神と魂のほか、何ものも知ることはない」と。つまり彼によれば、「まず捜し求めていく知性の内へと突入し、飛翔し、そしてこの捜し求めていく知性がこんどは、もはや捜し求めることのない知性の内へと、つまり、自分自身の内で純粋なひとつの光である知性の内へと飛翔する」ということが起こり得るのである。そしてそこでは、かの想像力は、もはや単なる想像を生み出す力ではなく、正に霊的な現実をありのままに把握する力なのである。というのは、そこにおいては、単なる知覚というものは役に立たない。そこでは、すべてが生きて動いており、そして何ものも他のものと似てはいないので、「把握」とか「類推」といった働きは意味を成さないからである。さらにそこには、もはや「形式」とか「法則」といったものさえない。というのは、そこには時間というものがなく、したがって経過や戦略といったものも無いのだから。そこでは、すべてが思いのままに生起する。人は、それを思いのままに戦い取り、奪い取ることができる。主イエスが、「天国は、激しく攻めるものがそれを奪い取っている」と言われた通りである。しかし、そこに一つの掟がある。そこは、神の義が支配するところだからである。そこで人は、神が言われた「わたしが聖であるようにあなた方も聖でなくてはならない」という言葉の通りに文字通り自ら完全に主体的に生きるのである。

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