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2009/11/23

アダムは神の子か?

本当に、こんな風に訳していて、いいんだろうか。新改訳聖書は。
これでは、イエスが神の子だから、神ではないなんて言われても仕方がないのではないだろうか。

<新改訳>
ルカ3:38
エノスの子、セツの子、アダムの子、このアダムは神の子である。

<新共同訳>
ルカ3:38
エノシュ、セト、アダム。そして神に至る。

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コメント

通りすがり様
私の願いをお許しくださり、感謝申し上げます。今回は、とても勉強になりました。ありがとうございました。またいろいろお教えくださいますように。

投稿: ブログの作者 | 2011/07/01 07:33

とてもすばらしいお返事ありがとうございました。
「キリストによる救いは、最初のアダムへの回帰以上のものだと思っています」という部分は私もそう考えていますし、多分通常のキリスト教の教理に沿っていると思います。
「神の子」の意味について、残念ながら私は神学教育を受けておらず、牧師等でもないので、どんな解釈が正しいのかを述べることはできません。
最近回復訳(新約聖書だけですが)の聖書を手に入れましたが、注がたくさんついていて、大変おもしろく読んでいます。この箇所について見てみたら、こんな風に書いてありました。
「これは、アダムが神から生まれ、神の命を持っていたことを意味するのではありません。」「アダムは神によって創造され、神が彼の源でした。これに基づいて、彼は神の子であると見なされました」

投稿: 通りすがり | 2011/06/30 11:49

通りすがり様
 アドバイスありがとうございました。
あなたが再三にわたり警告してくださったことの意味も、少し分かってきたように思います。というのは、インターネットで検索してみると、「アダムは神の子」という句を引いて、いろいろな方が信仰的な話をしているようですから。一般的には、「アダムは神の子」という句が抵抗無く受け入れられているように見えます。そして、そのことは、新改訳聖書のこの訳は、正しいということの一つの裏づけになるのかもしれません。そして、再びそのことが、私がこの記事を自分の軽率な考えの成せる業として、このブログから削除すべきとの結論に導くのかも知れません。しかし、私は小さな教会の名もない一信徒に過ぎず、守るべき名誉など何もありません。そして、私がこのブログを書いているのは、自分なりに信仰を追及することであり、他の人から認めてもらうためではありません。ただ、あなたのような方から、私の気づかないことを教えてもらえたら幸いと思っていました。
 そこで、この記事のことですが、私が一番知りたいのは、「アダムは神の子」という句を皆様がどのような意味に使っておられるのかということです。私がインターネットで調べて感じたところによると、それは「神の子のような」とか、「神の子と見なされた」とかいう意味のように思えます。そして、もしそうなら、それは私の信念と多いに異なっていることになります。というのは、「神の子」とは、「神から生まれた者であり、それ自身も神である者」という意味だと信じているからです。もし「アダムは神の子」ならば、アダムは神から生まれたのでなければならない。神に造られたのであってはならないと思うのです。しかし、神はご自身が造られたものを、生んだと言われるのならそれも可能かもしれません。つまり「ご自身に似せて造る」とは、「生む」と等しいと理解することです。しかし、三位一体については、アタナシウス信条には、「22.子は唯父よりのものにして・造られず。生まれたるなり」と詠われています。そこで、このことによれば、「アダムは神の子」という訳は、抵抗なく受け入れられるものではありません。しかし、そのように考えると、今度は、「御子を信じる者は、主イエスの恵みにおいて、神の子である」という聖書の言葉が、「神の子と見なされる」という意味になってしまうことになり、空しく響きはじめるように思えます。つまり、主イエスによる罪の購いと原罪からの解放が、最初のアダムへの回帰なのか、それ以上のものなのかということが問題なのです。もしそれ以上のものならば、私の考え、つまり「アダムは神の子」という訳は不適切という考えは正しいと思います。しかし、最初のアダムへの回帰に過ぎないのなら、アダムこそがすでに神の子でなければならないことになります。
 今の私の考えでは、キリストによる救いは、最初のアダムへの回帰以上のものだと思っています。というのは、キリストは天地が造られる前からおられたからです。それゆえ、私たちがキリストの恵みにより、奇跡的な神の御業により、神の子に造り変えられるという解釈になります。そして、これは聖書には書いてありませんが、最初のアダムにも必要なことだったと思います。アダムはその前に罪を犯して神から離されてしまいましたが。そしてこの考えなら、「アダムは神の子」ではなかったということになります。
 この際限の無いような、私の内の議論が終結するまで、私は、この記事を削除せずに残しておきたいと思っています。どうかお許しください。そして、通りすがり様の貴重なコメントもそのままにさせていただきたくお願い申し上げます。これを読まれる方が、少なくとも私が、ただの軽い思いつきだけでこの箇所の訳を批判したのではないということと、通りすがり様のような方がそれを嗜めてくださり、それを拒否してまでこの記事を残したいほど主張したい何かがそこにあるかも知れないことを知っていただくためです。

投稿: ブログの作者 | 2011/06/29 23:31

今回が私の最後のアドバイスです。この記事はあなたの評価を下げるだけですので、削除された方がいいと思います。

1 英語からの訳ではないと言っているのに、英語訳を前提としたかの言い訳は見苦しいです。意地悪を言えば、英語訳を参考にしたのなら、「子」とは訳さずに「息子」と訳してもよかったですね。

2 聖書解釈の一般原則を勉強してください。
 たとえば、聖書解釈学概論(バーナード・ラム著)の聖書解釈への一般原則では、その第1に原語の優位性をあげています。原語について良く知らないでこの記事を書かれたのであれば、まずはそれを勉強してからにされた方がいいと思います。

3 最近田川建三氏が新約聖書の翻訳と註のシリーズを出版しています。この方は新改訳聖書については非常に厳しい評価をされている方です。
 この方がこの部分について以下のとおり書いています(「新約聖書 訳と註 2上 ルカ福音書」P273-274)。
 「口語訳(=新共同訳)はこの系図の最後に至って、肝心の点を誤魔化した」
 「こういう重要な文を誤魔化してはいけない。非常に長い名前の列挙であるが、文法的には最初(23節)に「ヨセフの子」と「子」という語が明示されており、以下の人名は全て属格(~の)で、上記のように「子」という語が省略されている。西洋語はこういう場合無駄な反復を避けて、以下の列挙では省略するものであるが、それぞれ「~の子」という言い方であることははっきりしている。従ってこの最後の「神の」もむろん「神の子」の意味である。もちろん西洋諸語の翻訳はすべてはっきり「神の子」と訳している。」
「こういう重要な概念を誤魔化して訳しているのは、私の知る限り口語訳と新共同訳(岩波訳も)だけである。」
以下まだ続きますが、よろしければ実際に本をお読みください。

これらのことからわかることは、私が最初から申しあげているとおり、この部分の新改訳聖書の訳は正当なものであるということです。
ですから、自分が「変だと思う」という見解だけで、翻訳を批判されるのはおやめになった方がいいと思います。

通りかかっただけで厳しいことを言いました。別にこの記事が消えても残っていても私には何の利害もありませんが、あなたの名誉のためにも削除されることをお勧めします。

投稿: 通りすがり | 2011/06/29 00:08

通りすがり様
有益なコメントの数々、まことにありがとうございます。
新改訳は、ギリシャ語から訳していると主張していますので、その通りなのだと思います。しかし、英語訳を多いに参考にしていると思われます。そして、そのように英語訳を信頼することは、やはり英語から訳しているのと結果的には、それほど変わらないと思うのです。
しかし、英語訳が「神の子」と訳しても、そこに「養子」というような意味が含まれていれば、それは仕方がない、というか英語の「son」自体がそのような中間的な意味なのでしょうから、むしろ適切な訳とされるのかもしれません。しかし、それらの英語訳を信頼して、つまり「多くの英語訳がそのように訳しているから」という理由で、日本語訳においても「神の子」と訳すことは、英語の「son」を小学生が単純に辞書を引いて、最初に出てきた訳だけを見て安易に「子」と訳してしまうのと大差ないように思います。それ以前に、どのような深遠なギリシャ語研究の成果が背景にあろうと、最後の日本語へのマッピングがおろそかにされているならば、何にもならないと思うのです。そして、私がもっとも申し上げたいのは、このような議論は、際限がないということです。原典の信頼性や歴史背景や生活習慣、民族性と伝播の経緯等々が原語知識と同じくらい重要になってくると思います。そこで重要になるのが、やはり教理との整合性だと思います。それが最も上位になければ、何も信頼できなくなってしまう。神がそのように定められたのだと思います。そのようなことを前提にして、「アダムは神の子である」という一文を読んだとき、「これは明らかに変だ」という単純もっともな見解に達してしまうのです。

投稿: ブログの著者 | 2011/06/27 06:58

通りすがりで少しコメントを書くつもりが、長くなってしまいました。

新改訳聖書に対する批判をされることは、新改訳聖書の翻訳をしている人にとっても有益でしょうから、是非お続けください。

しかし、今回の部分は勇み足だと思います。これを読んだ人は、批判をなるほどと思うどころか、いい加減な批判をしているとしか思わないおそれがあります。なぜなら、ちょっと英語が読める人が英語訳の聖書を見れば、同じような訳の英語訳があることを発見し(しかも、かなりメジャーな訳で)新改訳と同じだとということがすぐわかってしまうからです。

翻訳を批判するのであれば、原文と翻訳文を比較して、どこがおかしいか指摘すべきでしょう。それなしに、ひどい翻訳だと言うだけでは人を納得させることはできません。

私が、これまで批判がなかったと言っているのは、新改訳に対してのことではなく、同様の訳をしている英語訳についてです。多分何億という人に読まれている英語訳でも新改訳と同様の訳がされているのに、これまで問題とされていないのは、その訳がおかしくないことを強く推定させるものです。

翻訳の原則として、同じようなものは同じように訳すべきです。ずっと何々の子と訳されているものを最後だけ養子と訳すのは、ご都合主義です。なお、これはギリシア語文法の問題ですから、son に養子としての意味があるかどうかは全く関係ありません。新改訳聖書はギリシア語から訳されているので、英語から訳されているわけではありません。
「英語の「son」には、「養子」という意味があります。英語はそれだけ曖昧なのです。だから、翻訳のときにそのような言語の特性を無視して、あるいは見落として安易に訳してしまうと、教理から見ておかしいことになってしまいます。新改訳聖書や、やはり軽率だと思います。」というのは、新改訳聖書が英語から訳されているという理解で書かれているのですか?

この部分はギリシア語の属格の用法を学ぶ必要があると思われます。英語はもちろん、日本語でも聖書ギリシア語の文法書(初級より進んだもの)をご覧になったり、岩隈氏の新約聖書の翻訳シリーズ(文法解説がついている詳細なもの)等を参考にされたらいかがでしょうか。

私としては、建設的な批判をしていただき、日本の聖書翻訳をより良くしていくためにしていただければと思います。

失礼なことも言いましたが、お赦しください。

投稿: 通りすがり | 2011/06/26 23:44

通りすがり様
コメントありがとうございました。
私がなぜ、これらの一連の新解約聖書批判の記事を書いたのかが一つのポイントです。つまり、新改訳聖書には、おかしいところがたくさんあるのに、これまで批判の対象になっていなかったのです。その理由の一つとして、どこかに書きましたが、教派の壁があり、批判できる立場の人は、読むのもいやのようなのです。そして、逆もまた然りです。だから、これまで批判が無かったというのは、あまり当てにならないと思います。それから、「son」という英語は、やはり神のところでは「養子」と訳すべきでしょう。それなら少しは意味が通ります。英語では、それがごっちゃになっているのだと思います。それを日本語でもごっちゃにするくらいなら、原語通り、「子」という言葉を入れない方が適切だと思います。

投稿: ブログの作者 | 2011/06/26 21:56

BLBを見ました。確かにかっこが付いていました。
ただし、それより前も全部かっこが付いていました。そう言う意味では神の子の部分だけではありませんでしたね。
ざっと見たら他の箇所にもかっこがあちこちについていて、そこを抜くと文法的におかしくなるところもあるので、どういう基準でかっこがたついているのかわかったらお教え下さい。

投稿: 通りすがり | 2011/06/26 21:55

一番最初に答えたように、新改訳の訳はこれまでの聖書翻訳の歴史からみておかしいとは思えませんよ。この訳がおかしければ、同様の訳をしてきたような英語訳でも大問題とされていたでしょう。NASB.NIV等。
つま、こんな風に訳していいんだろうかと批判されるようなものではないのです。

投稿: 通りすがり | 2011/06/26 21:37

通りすがり様
blue letter bible は、少なくとも括弧付きのものを掲載しています。また、Googleで「kjv Luke 3:38」と検索して出てくるものの中にも括弧付きのものがあります。

投稿: ブログの作者 | 2011/06/26 21:29

私の先のコメントは、入れ違いだったようです。
あなたがおっしゃるKJVのかっこつきという意味がよくわかりませんが、どこについていますか?
聖書ソフトやオンラインのKJVを見ましたが、かっこは見当たらないので。

投稿: 通りすがり | 2011/06/26 21:21

通りすがり様
論点をはぐらかさないでくださいよ。
この場は、新改訳聖書に関する批判ですよ。他の聖書訳はどうでもいいと思います。新共同訳は、参考に置いています。また、私がどんな知識を持っていても関係ないと思います。要するに、言っていることが当を得ていれば良いと思います。
私が申し上げたことに、あなたは一言も答えてくださいませんね。それは、卑怯だと思います。たぶん、答えられないのでしょう。

投稿: ブログの作者 | 2011/06/26 21:19

あなたは翻訳を批判するのだから、ギリシア語、ヘブル語の基礎的な文法知識とギリシア語、ヘブル語のテキストはお持ちですよね。
ちなみに、この節は、トゥー エノース トゥー セース トゥー アダム トゥー セウー です。
トゥーは定冠詞、セウーは神でいずれも
属格で、英語の所有格に近いものです。
だから、多くの翻訳は例えばKJVと同様に訳しているのです。
まずはそこまで理解した上で批判すべきでしょう。

投稿: 通りすがり | 2011/06/26 21:06

通りすがり様
お答えいただけないのは残念です。
それでは、私の考えを申し上げましょう。
ギリシャ語にも「子」という意味はないのではないでしょうか。新改訳聖書は、それを挿入しています。だから良くないと思います。KJVは確かに「the son of God」と言っているようです。でも、括弧付きですよ。挿入を強く意識して、それを明示することにより謙遜を表わしています。まあ許せると思います。それに、英語の「son」には、「養子」という意味があります。英語はそれだけ曖昧なのです。だから、翻訳のときにそのような言語の特性を無視して、あるいは見落として安易に訳してしまうと、教理から見ておかしいことになってしまいます。新改訳聖書や、やはり軽率だと思います。

投稿: ブログの作者 | 2011/06/26 20:56

厳しく言えば、論点のすり替えですね。あなたの批判は、本当にこんな風に訳していいんだろうか。新改訳聖書は。でした。
だから私は新改訳聖書は特別変な訳をしているのではなくて、変だと思い込んでいるあなたの意見がおかしいでしょ、と批判したのです。
だから、あなたの方で、新改訳も含めて訳がおかしいという根拠を示すべきでしょう。それができないならまずこの無責任な記事を削除して、それからアダムが神の子とはどんな意味か皆さんの意見を聞かれたらどうですか?

投稿: 通りすがり | 2011/06/26 20:42

通りがかり様
コメントありがとうございました。
ひとつお教えいただきたいのですが、「神の子」とは、どういう意味ですか。「神が生んだ」という意味でしょうか。でも神はアダムを生んではいません。創造したのです。アダムはセツを生みましたが、神はアダムを生んでいません。それなのに、どうして両方とも「~の子」という表現を使うのでしょうか。翻訳は、そこまで責任を持たないのでしょうか。たくさんの人が聖書を読むのではないでしょうか。それは何のためかというと、信仰を得るためです。そういう方々のために、翻訳は何をすべきでしょうか。まだまだお聞きしたいことがたくさんありますが、今回はこれくらいにしておきたいと思います。

投稿: ブログの作者 | 2011/06/26 18:30

ちょっと調べればわかりますが、神の子と訳すのが普通ですよ。KJVの時代からそのように訳されています。原語にはーにいたる、という言葉はなく、23節からつづけて、〜のという言葉が続いていて、最後も神の、です。
思いつきで翻訳を批判しないほうがいいでしょう。

投稿: 通りすがり | 2011/06/26 12:30

・・・・。

投稿: ブログの作者 | 2009/11/28 07:34

本当に驚きました。 何故今まで気がつかなかったのでしょうか(私自身のことです)。 そのことも驚きです。
 

投稿: ラピス・ラズリ | 2009/11/27 09:02

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