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2009/11/27

神に知られる貧しさ

三つの内なる貧しさについて

 信仰者は、常に霊的な向上を求める。それでは、究極的な霊的向上とは何だろうか。エックハルトによれば、それは「自己の神概念の突破」である。そしてそれは、単なる「神という概念」の突破ではなく、「自己の信じる神」そのものの突破なのである。というのは、私にとっての神とは、実際「私の信じる神」以外のものではないからである。同様に「あなたの信じる神」がある。そして、その二つの神が実は一つの神であるというのが「唯一の神」ということであり、また三位一体の奥義でもあるからである。同様に「私の見る世界」があり、「あなたの見る世界」がある。そしてそれは、実際は「私が住む世界」であり、「あなたが住む世界」である。それら二つの世界の間に直接のつながりはない。というのは、あなたの住む世界を私は見ることはできないから。私とあなたは、同時に同じ場所にいることができないからである。それがこの世界の構造なのであり、私がいなければ、私が住むこの世界もないのであり、同様に私の信じる神も存在しないことになる。エックハルトによれば、それがこの世界の構造なのであり、私たちはそのように神から流出し、時間の中に運び出され、空間にばらまかれているのである。そこで私がもといたところに帰ろうとするならば、どうしてもエックハルトのいう「何も意志せず」、「何も知らず」、「何も持たない」という状態になることをおいて他に方法がないのである。
 エックハルトにとって「霊的な向上」とは、また「自分自身を取り戻す」ことである。最初に創造されたときの、神の元に永遠に休らう自分をである。しかし、それはむしろ「自分を失うこと」になるのではないか。私たちには、そのように思われるのであるが。たぶんそれは、私たちがあまりにも自分の世界に住み慣れてきてしまった勢ではないだろうか。そのようにして、私たちの心は、自分の住む世界のことしか見えなくなってしまったのではないのか。そしていつしか、他の人も自分の見ているその同じ世界を共有しているかのように錯覚してしまったのではないか。しかし、実際には、人と人とは心を通じ合わせることが困難であり、同じ経験を分かち合うことも困難である。それが可能なのは、むしろこの見える世界の外においてだとは言えないだろうか。
 そこで、エックハルトの言う「突破」が必要となる。そしてそのようにして、多くの人が神の元に帰って来るとき、そこでいったい何が起こるのだろうか。そもそもそれらの人は、互いにどこか違ったところがあるのだろうか。もちろんあるに違いない。しかし、そこにおける個々の特徴は、この世界における個人差とは、まったく異なったものだろう。そこにおいては、この世界のすべてのものは、一匹の蚊から木々、人間に至るまで、そこにおいては、すべて同じ一つの原像を持つ。それらが流出している源の原像は一致するとエックハルトは言う。しかし私たちの霊的な本質は決して一致しない。それこそが個性的なものである。私たちがこの世界で競い合い、自慢し合っているのは、すべてこの世のものごとであり、無味乾燥なものである。そこで競われているのは、本質的には、多い少ないということである。今あるものは、以前あったものであり、これから来るものもまた同様である。しかし、霊的なものに同じものはない。そしてすべては、自己自身の目的を持っている。つまり自己自身がその目的なのであり、それらの目的の目的は、神なのである。
 エックハルトは語る、「この話を理解できない人がいても、そのことで心を悩まさないでいただきたい」と。彼は続けて祈る、「わたしたちが今日の話のように生きるよう、またそのことを永遠に経験するよう、神が私たちを助けてくださるように。アーメン」。

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