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2009/11/23

アダムは神の子か?

本当に、こんな風に訳していて、いいんだろうか。新改訳聖書は。
これでは、イエスが神の子だから、神ではないなんて言われても仕方がないのではないだろうか。

<新改訳>
ルカ3:38
エノスの子、セツの子、アダムの子、このアダムは神の子である。

<新共同訳>
ルカ3:38
エノシュ、セト、アダム。そして神に至る。

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神に知られる働き

魂の内にある火花について

 「この比喩をあなたがたが正しく理解することができれば、あなたがたはわたしの考えと、これまでに説教してきたわたしの全関心の根拠とを理解するであろう」とエックハルトは言う。彼はこの比喩で、人と神との類似性について語っているのである。神は、人を御自身の似姿に創造された。神の姿とは、なんだろうか。それはエックハルトによれば、姿形よりもさらに本質的なもの、神の業であり、働きである。そして神の働きとは「生むこと」である。それゆえ、エックハルトが主張するのは、神が自身を自身の内に生むように魂もまた生むという働きを持っているということである。しかしそれは、自身の内に自身である魂を生むというのではなく、ここでもやはり自身の内に生まれるのは「神」なのである。というのは、神は魂をご自身に似せて創造されたゆえに魂も神の業を成すのであるが、神の業とは、自身の内に魂を生むのではなく、神自身を生むことだからである。と言うのも、魂は神から生まれたのではなく、神によって創造された被造物だからである。そのように、霊的な意味での「生む」という業は、いわば神の家族にのみ適用されるのであり、被造物である魂には、決して適用できないものなのである。
 ここまで前提したところで、さてエックハルトが言うところの「わたしの全関心の根拠」とは何であろうか。それは、「生む」という働きは、創造という業を通じて被造物に継承されるということである。もう少し違う表現をすれば、「創造」という業が完全なものである場合、もちろん創世記に記されているように、それは神ご自身から見て「はなはだ良かった」のであるが、その創造は、実にある種の非被造性さえをも継承するのである。もっとも、創造されたもの自身は、被造物なのであり、非被造的なものではあり得ない。しかし、それでもそれは、非被造的な存在である神と同じ「生む」という業を働くのである。それは、神が魂をご自身の姿に創造されたからなのであり、その創造が完璧なものであるかぎり、創造されたものも完璧に機能するのである。しかし、そうは言っても、被造物である人間が己の思うままに神を生むということは、あり得ないことである。「生む」という業は神の業であり、神以外のものは成し得べからざるものであるから。そこで、エックハルトの提示する比喩が問題となる。つまり、自分の目とその見ている対象の間の関係である。それらが互いに似ても似付かない別々の個体として神から創造されていても、そしてそれらが互いに離れたままで、触れ合うこともないのに、その物体を見ている目の網膜にその物体の像が映し出される。そのとき、網膜がある種の化学変化を起こし、それら二つの対象の間に明らかな関係が生じるのである。しかも、見られている対象には何の変化もなしに。それならば、神の形に創造された人間の魂とその原型としての神との間には、どれほど親密な関係が保たれ続けていることか。そこで、もし人が自分が生まれてから今までに獲得してきたすべての知識や人生の目標等を自ら放棄し、神の前に無一物のようになるなら、そこに残されるのはこの聖なる関係であり、そのとき彼の内にある神の姿、すなわち「生む」という働きが神の業として働き始めるのである。そのとき、魂は神から造られた神の像としての非被造性の中で、自ら神を生むという働きを成すのである。そして、そのような状態、すなわち、魂と神がそれぞれ被造物、創造主として、互いに完全に別々の存在でありながら、これ以上の合一はあり得ないほどの関係を維持するときに、魂は永遠の浄福の内にあるのである。
 このエックハルトの比喩が理解できない人も、次の話は理解できるのではないだろうか。つまり、私たちは上記のことを理解できるように、肉体の子孫を生むという働きを与えられているということである。それは、よく考えてみると、「生む」働きというよりも「創造」の働き、すなわち被造物を造り出す働きである。もちろん、私たちが一から十までそれを行うのではなく、私たちが行うのは、いわばそのきっかけを与えることと、その創造の場所として自分の肉体を提供することだけであるが、この超自然的な創造の働きは紛れもなく、私たちの自由に任されているのであり、私たちは自己の責任において、それを行使できるのである。このように、神の創造の働きが私たちに委ねられているのだから、「生む」という働き(エックハルトによれば、それは神を生むこと以外では有り得ない)もまた同様なのである。
 エックハルトは語る。「魂も一切の被造物もものともせずわたしは断言する、魂が神の像であるところでは、それらは魂を神からけっしてはなすことかできないであろうと。これが本当の合一であり、この内に本当の浄福がある。多くの師たちは浄福を知性の内で求める。しかしわたしは、浄福は知性の内にも、意志の内にもなく、それら二つを超えていると断言する。浄福が知性としてではなく、浄福としてあるところ、神が神としてあるところ、魂が神の像であるようなところ、そこにつまりは浄福があるのである。魂が神を、あるがままにつかむところ、そこに浄福はある。そこでは魂は魂であり、恩寵は恩寵であり、浄福は浄福であり、神は神である。主に祈ろう。わたしたちが、そのように神とひとつになることに恵まれるよう、神が助けて下さるように。アーメン。」

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