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2009/11/16

自由意思の擁護

ヨナ書 第4章 6、7節の訳について
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(新改訳)
6.神である主は一本のとうごまを備え、それをヨナの上をおおうように生えさせ、彼の頭の上の陰として、ヨナの不きげんを直そうとされた。ヨナはこのとうごまを非常に喜んだ。
7.しかし、神は、翌日の夜明けに、一匹の虫を備えられた。虫がそのとうごまをかんだので、とうごまは枯れた。
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(新共同訳)
6.すると、主なる神は彼の苦痛を救うため、とうごまの木に命じて芽を出させられた。とうごまの木は伸びてヨナよりも丈が高くなり、頭の上に陰をつくったので、ヨナの不満は消え、このとうごまの木を大いに喜んだ。
7.ところが翌日の明け方、神は虫に命じて木に登らせ、とうごまの木を食い荒らさせられたので木は枯れてしまった。

 この個所では、新改訳と新共同訳の考え方の違いが良く分かるように思える。新改訳によると、神は、ヨナの不きげんを直そうとされた。しかし、そのような人にこびへつらうようなことを神がなさるだろうか。そうでないなら、神はヨナをからかっておられるのだろうか。新共同訳では、神がヨナをとうごまの影で覆われたのは、彼を暑さの苦痛から救うためであった。そのようなことなら神はなされるに違いない。
 また7節では、新改訳によると、神は一匹の虫を備えられたが、その虫がとうごまをかんだのは、その虫の自由意思のように受け取られる。そのようなことを神がなさるだろうか。神は御自身の業を偶然に任せるようなことをなされない。しかし、新共同訳では、神は虫に命じて木に登らせ、とうごまの木を食い荒らさせられたのだ。神は、そのように絶対の力で歴史を動かしておられるのである。
 出エジプト記におけるパロの意思解釈等も併せて考えると、新改訳の神観はどうも、自由意思を過度に尊重する傾向にあるような気がする。だから、人の機嫌を取られるのであり、またヨナへの裁きを虫の自由に任せられるのである。
 新改訳は、自ら「直訳」だとか「原典に忠実な訳」だとか言っているが、実際は、或る一つの辺境な神学に根ざした翻訳であるように思えて仕方がないのだ。

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