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2009/11/11

神に知られる一性

捨て去るということの意味について

 ここでは、「捨て去る」という行為が追求され、勧められている。つまり私たちは、捨てるべきものを持っているということなのである。しかし、その「捨て去るべきもの」とは、いったい何だろうか。財産、仕事、友、家族、目標、夢、等々、様々なものが考えられはするのだが、そもそもそれらは本当にその持ち主である私たちのものなのだろうか。これは、元も子もない疑問ではあるのだが。エックハルトは、ある日彼の元にやってきた一人の人、彼は自分自身の魂を救うために土地や持ち物など大事なものを捨て去ったのであったが、その人に対してこう言っている、「ああ、なんとわずかなつまらないものを捨て去ったのだろう」と。彼は、続けて言う、「あなたが千倍の見返りを求めて、それを捨て去るならば、あなたは何ひとつ捨て去ったことにならない。あなたはそういうあなた自身を捨て去らなければならないのである」と。
 つまり、私たちは、多いに勘違いをしているのかもしれない。自己実現の方法についてである。たしかに自己の最高の目的は、自己実現である。しかしそれは、肉的な快楽によるものから完全な自己犠牲に至るものまで、様々な形態が考えられる。一方エックハルトは、最高の自己実現とは「自分自身を捨て去ること」だという。これらは、いったいどういう関係にあるのかと言えば、私たちは何か或るものを真に所有する、すなわち永遠に所有することはできないし、また何か自己実現に役立つことをすることもできない。それらは、すべて錯覚か倒錯だということなのである。「創造されたいかなるもののうちにも真理はない」とエックハルトは言う。もし私たちに「真に所有している」と言えるものが何かあるならば、それは、どんなことがあっても私たちから奪い去ることのできないものであり、逆に、何かの拍子に失われてしまう可能性のあるようなものは、最初から私たちのものではなかったのである。
 それでは、真の現実とはどういうものかと言えば、私たちと神との関係は、決して奪い去ることのできないものであり、私たちは、ただ父なる神との関係に生きる存在であるということである。このことに比べたら、その他の「所有」とか「成長」とかいうものは、取るに足らないものなのである。というのは、人はどんなときにも、神と離れられない存在、いや神と一体の存在なのである。それゆえに、極端なことを言えば、「神を求める」とか「信仰を追求する」とかいうことさえ、すでに倒錯した考えなのである。なぜなら、そのような考えは、「神から離れている者の考え」だからである。まして、そのために「あれをしよう」とか「これをしよう」と考えて努力することも全然まと外れなことである。というのは、確かに私たちは、この地上においては、神から離れたところに暮らしている。しかし、天は主イエスとしてこの地上に焦点を結び、神の言葉はすでに私たちと共にあるからである。私たちは、聖書が言っているように、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を注ぐ必要がある。すべての見えるものは、この見えないものから出てきたのであり、いまも見えないものによって保たれているのである。「このものから、永遠なる父である神は、神のすべての神性の豊かさと深淵とを現わし出すのである。これらすべてを父はここ、その独り子の内で生み、わたしたちが同じ子となるように働くのである」とエックハルトは言う。彼はさらに続けて語りまた祈る、「父が生むことは、父が内にとどまることであり、父が内にとどまることは父が外に生み出すことである。常にあるのは、それ自身の内で湧き出ずる一なるものである。『我』という言葉は、その一性における神だけに固有な言葉である。『汝ら』という言葉は、『一性の内で汝らは一である』という意味である。『われ』と『汝ら』、この言葉は一性を指し示している。わたしたちがまさにこの一性でありますように、またこの一性を保てますよう、神がわたしたちを助けて下さるように。アーメン」。

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神に知られる必然

自分自身を脱ぎ捨てるということについて

 「人は自分自身を脱ぎ捨てなければならない。自分自身を捨て去るならば、そのことによって人は、キリストと、神聖と、浄福とをみずからの内に迎え入れるのである」とエックハルトは言う。
 「自分自身を捨て去る」とは、自己実現を完全にあきらめることであり、そのようにして、ただ神との関わりの中でのみ生きるということである。というのは、神の方はすでにそれを行っておられるからである。私たちは、神の似姿に造られた神の子である。それゆえに神は私たちを愛し、私たちのためにこの宇宙を動かしておられるのである。「神は星と共に、月と共に、そして太陽と共に働くのであり、神は魂のために、これほどに大いなることをなし、今もなおなしているのだ」とエックハルトは言う。
 それは、いったい何のためであろうか。何のためということはない。神は、そうせずにおられないのであり、私たちが神の似姿に造られたということは、そういうことなのである。すなわち神の内に、永遠の昔から神の内にある神の業に象って神は魂を創造されたのであり、それゆえに私たちが生きるのも、神が活動されるのも、「なぜ」という理由などないのであり、私たちは、この永遠の業に従って「生きるがゆえに生きる」のだからである。
 そのような私たちの魂は、神と完璧なまでの関わりを持っているから、もしあなたが自分の考えで生きることをいっさいあきらめて、神の御心以外を求めないと決心するならば、神の祝福が音を立ててあなたの内に流れ込んでくるのだとエックハルトは言う。そのとき魂は、その神的流入を純粋に受け取るのであり、その受け取り方は、空気が太陽から光を受け取るような見知らぬものではけっしてない。「魂は、光が光を受け取るように受け取るのである。なぜならば、そこには未知も距離もないからである」とエックハルトは言う。つまり、この領域にあっては、すべては必然的に生起するのであり、一つとして偶然的なものはない。キリストにあって、私たちはみな神の子であり、それゆえに旧新約聖書に書かれていることは、すべて私たちにいて成就されるのである。
 しかしそれは、永遠の世界における出来事なのである。それでは、それは私たちが死んでからのことなのか。それもそうである。しかし、生きている間にもそれは起こる。私たちの心が永遠に入るときそれが起こるのである。それは、あのキルケゴールが言っていることと同じなのである。すなわち、「自己が精神となるまでに自己の本質が根底から動揺せしめられて、神には一切が可能であるということを本当に理解するに至ったような人間のみが、神との交わりにはいったのである」。

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