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2009/11/09

行為と存在:存在論的な試み

 「われ思う、故にわれあり」の説き明かしにおいて、「われあり」に対して、存在の問題を提起するのを怠ったのは、デカルトとすべての彼の追随者の本質的な誤りである、とボンヘッファーは言う。確かに「考える我」が存在していることは、たとえ他のすべてのことが夢うつつであったとしても、決して疑い得ない事実であり、デカルトがこの発見を彼の哲学の基礎に据えたことは画期的であった。しかしよく考えてみれば、「思うこと」によって「われがある」ようになるのではなく、「われ」はすでに存在しているのであり、むしろ「われ思う」はその結果なのだから、存在論が提起されるべきであったとボンヘッファーは言うのである。つまり、もう少し人間的に言えば、もしすべてが夢であり、この世界に私以外のものが存在していないなら、私がいくら考えようとも意味はなく、私の存在の必然性も危うくなってくるからである。存在論は、この存在の必然性から論理を組み立てようとするのであるが、その際にも、私の知覚が受け取るものと当の対象の間には、質的、量的の両面に拭いきれない相違が存在し得る。それにより、存在論が空虚な体系に陥らないためには、知覚を含む思惟自体をも存在として取り扱うことにより、自らの体系に取り込む必要がある。しかしこれにより、存在論は観念論的な傾向を帯びることを免れ得ない。そこで、その危険を注意して避ける為には、自らの内に閉じ隠ろうとする衝動を抑え、外部とのコミュニケーションの道を開く必要がある。それはつまり、自分の外部に何か超越的な対象を想定することであり、その方法は、現象学的な洞察、すなわち認識の限界性を正しく受け取る限り、直観的なもので有らざるを得ない。つまり存在論は、自らの体系を補完するために思惟的なものを体系の中に巻き込んだのであるが、それは結局、思惟的なものすべてを定義されたものと見なすことになり、その結果そこには、創造的なものの入り込む余地がなくなり、新しいものはすべて直観により獲得せざるを得ないということ、すなわち存在論的な探求の基礎が実は直観のみであるということになってしまったのである。
 これらのことは、神学にとっては、絶対者の存在証明に道を開くことになる。そして、存在論が言うところの「直観」は、神学の言う「啓示」に対応する。つまり、これまで考えられてきたように、哲学が神学の基礎となるのではなく、逆に神学的な洞察が存在論を彩り、実り多いものとなし得るのである。
 さらに、神学にとって有用なものとして、キルケゴールやハイデッガーの実存哲学の方向性がある。これにより存在論は、人間一般を静的に取り扱うものから、歴史の中における特定の自己の生き方をダイナミックに問うものとなり、罪の意識と贖罪に対応する事柄が体系の中に期待されるようになる。そしてさらに、ブルトマンが主張する「信仰ある現存在も、依然として現存在である」という実存論的な信仰姿勢による神学から哲学へのアプローチは、信仰者に対して、すなわち神学に対して、それまでなかった、活き活きとした啓示概念を回復させることになるとボンヘッファーは言う。
 さらに哲学に対しては、学問的な探求だけでは、自己が認識する通りの有り様で外的世界が存在するとは言えず、また自己は外的世界の有り様をありのままに把握できているとも言えないゆえに、すべては直観ないしは啓示により与えられるしかないのだから、このことを哲学は直視し、正しく受け止め、自ら予感している超越論的な存在への洞察を神学的なインスピレーションによって刷新することが求められるのである。
 このようなことを背景に神学は、啓示の存在についての従来のような独断的宣言と、これまた独断的な神の存在証明の試みから離れ、かと言って、哲学を神学の基礎に据えるのでもなく、哲学的な探求の可能性が神学的な洞察、乃至は前提を必要とすることを論証することにより、すべてを包み込む体系としての真理の探求という行為の中に、哲学と神学をしっかりと位置づけ、存在論的アプローチと実存論的なアプローチの両面から、すなわち外界の観察とその中に存在する我の観察の両面から、神を探求する信仰のアプローチを展開する必要があるのである。

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