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2009/10/23

神に知られる完成

神の子の誕生について

 ここには、「初め」と「終わり」について書かれている。この世界の初めから終わりまでについてである。しかし私たちは、それらの間、すなわち時間の中に生きているのであり、それらのことは、私たちの思いを超えているのである。しかしそれにも関わらず、「初めに」と言われているのであり、私たちもまた「初まり」という概念を知っている。たしかに私たちは「始まり」の外に生きている、すなわち、そのとき私たちはまだ生まれていなかったのである。しかしそれにも関わらず、一方ではすでにそこに生きていたのであり、今も依然としてそこに生きているということをそれらのことは示しているのである。それゆえに私たちには、永遠を想う心が与えられており、それをもって神を知ることもまた可能なのである。
 「初めに」、この言葉で次のことが理解される、とエックハルトは言う。すなわち、「われわれは、永遠の秘蔵性の隠された闇から父が永遠の内で生んだ独り子であると同時に、すべての純粋さの満ちた原初の純粋性という原始の内に依然としてとどまり続けているのである」と。すでに起こったすべてのことは、過ぎ去った過去であると共にまたある意味では現在でもある。それらは「いま」というこの一瞬の内にすべて含まれているのであり、私たちの記憶に落ちるのは、それらの断片に過ぎない。私たちが天なる父の子であるということは、今に始まったことではなく、永遠の昔からそうなのであり、またこれからも永遠にそうなのである。それゆえ永遠の内には、過ぎ去るということはなく、もし私たちが神の子であるならば、私たちは父から永遠に生まれ出続けているのである。
 それにしても、この世界はどこへ向かって動いているのだろうか。「主よ、これらのことの終わりはどうなるのでしょうか。」(ダニエル12:8)とかつて預言者ダニエルは主に訪ねたがそれに対する答えはなかった。しかしここでエックハルトが提示するのは、果たして福音的な啓示である。「神の御子が上から、至高の座から降りきたり、永遠なる光の父から、あなたの内に来る」。そしてその目的は、「彼が歩み出てきた彼の宝庫、秘められた父性の静粛な闇、最も純粋な場へと彼の花嫁なる魂を連れ帰り、その秘められた神性の隠された秘密を彼女に明かそうとした」のである。そのときあなたは、この果てしない時間の中から御子により連れ出され、世の初めから隠されていたことを認識する。そこでは、「初め」と「終わり」は一つである。というのは、最初の「始まり」は、最後の「終わり」のためにあったからである。そこでは、すべてが最高の完全さに従い、完成しているのである。同様にそこでは、「出ずる」と「入る」もまた一つのことである。あなたが父なる神の元から出てきたのは、再びそこへ帰るためだったのであり、それらは、神にあっては一つのことだったのである。そしてそれは、永遠の昔からの定めなのである。
 私たちは、何の目的で創造されたのか。そして、生まれ出た魂は、なぜ自己の存在の矛盾の中で呻いているのか。それはまた、全被造物の呻きでもあるのである。その日には、すべてのことが明らかになるのか。ある意味ではそうである。しかしまた、ある意味では、そうではない。というのは、「明らかになる」ということは、「過ぎ去ってしまう」ということだからである。しかしその日は、けっして過ぎ去るということはない。
 「最初に神が天地を創造した」、「しかし・・・」とエックハルトは言う。「まことに、神が最初の始まりである場ではけっして神は安らぐことはない。神が安らぐのは、神がすべての有の終わりであり休息である場においてである。・・・この最後の終わりとは何であるのか。それは永遠なる神性の隠された闇である。そこは認識されることがない。認識されることはこれまでにけっしてなかったし、またこれからもけっしてないであろう。そこでは神は、自分自身の内で認識されずにとどまり、永遠なる父の光がそこでは永久に射し込んでいるが、しかしその闇がその光をとらえることはついにない。わたしたちがこの真理にいたりつくよう、わたしが語ったこの真理が、わたしたちを助けてくれますように。アーメン」。

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神に知られる前進

一なる神について

 「一なる神」とパウロは言う。それに対して彼の友である神は、「友よ、もっと上に登り、もっと上に進みなさい」と呼びかけられた。これが神と魂の間にかわされている対話だとエックハルトは語る。魂が目指すのは、「善なる神」でも「愛なる神」でもなく、「一なる神」であらねばならない。「神は全神性の一なる父である」と彼は言う。神は、たしかに信仰においては「三位一体の神」であるのだが、それは文字通り私たちが信仰により神を認識する場合のことであって、神を目指すときのことではない。というのは、神を目指すときには、私たちはもはや、そのような第三者ではなく、神の子すなわち神の御子と同じ存在、すなわち当事者なのである。神は全神性の一なる父である。
 魂がわき目を振らずに、ただひたすら一なる神を目指すとき、魂は浄福を意志しているのである。そのように神の浄福に至ることを意志する魂の内に、神は恩寵を注ぎ込まれる。それが、魂を神へと帰りもたらすのある。そのとき魂に花によって結ばれた実、すなわち浄福が分かち与えられるのである。しかし、それはこの世においてではない。この世にあっては、魂には常に向上があるのみである。「友よ、もっと上に登り、もっと上に進みなさい」と神は言われる。
 「天は、すべての事物を一なるものの内へともたらすことを目指して遂行している」とエックハルトは語る。天は、その目的に向かって急ぎ、すべての物は、父に似たものにされるという目的のために運動しているのである。神は、魂を魅了し、魂に気にいられるようにと身を飾る。そのために、人はあるときは神のある姿を求め、またあるときは別の姿を求める。つまりあるときには、知恵の内で修練をつみ、またあるときには芸術の内で修練をつむのだとエックハルトは言う。しかし、魂が一なるものを所有していないうちは、すなわちこの世にある間は、魂はけっして完全な安らぎに至ることはない。この世においては、「神は一である」ということが魂にとっての浄福であり、魂の誇りなのである。そして、すべてはこの目標に向かって、ひたすらに走っているのである。
 神はそのすべてのわざの内で、魂からけっして目を離すことはないとエックハルトは言う。「魂より下位のすべての事物の内で、最も高貴なるもの、最も純粋なるもの、もっとも高きもの、それらを神は同時に魂の内へと注ぎ込むのである。神はすべてであり、そして一である。わたしたちがこのように神と一なるものになるよう、わたしたちを『一なる神にしてすべてのものの父』が助けてくださるように。アーメン」。

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