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2009/10/21

カツカレー

Curry 秋葉原で開催されたシンポジウムに出席した。昼休みに電気街をぶらついていて、行列のできているカレー屋があったので、そこに入った。カツカレーのエコノミークラスというのを注文した。そこのカレーは、パーフェクトということで、人気があるらしい。入口の自動販売機で食券を購入し、切ってもらってから二階に案内されたが、間違えずに注文したものを持ってきたのに感心した。すぐに食べてみたが、それほどすごくおいしいということもない。二階は、すべての席が壁側を向いていて、飾りっけも一切なく、ここは、すべてがただただカレーを食べるためだけに出来ていると思った。しかし、やはりあとで思い出してみると、カツの熱さといい、かかっているソースの量といい、添えられているキャベツの切り方といい、ルーの味といい、ご飯といい、すべてが絶妙に、しかもカレーという定義を超えることなく、実につつましやかに、配慮良くできていたように思った。それにしても、カツカレーの主役とも思われるロースかつをさえ「トッピング」と呼ぶ心意気には関心したのだった。

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超越論的な試み

 神学は、「神とは何か?」と問う。しかしその究極の目的は、「私とは何か?」ということであり、それはまた「世界とは何か?」という問いをも含んでいる。つまり結局は、何一つとして確かなことなどなかったのである。そのような従来の状況に対してカントの超越論的方法論は、まず自己の限界を認識することから始める。そのようにして自己というものを分析的に認識していくことにより、やがては自己を包み込むところの外部世界、そしてそれらの存在理由であり統治者でもあるところの根本的な存在を認識しようとしたのである。この方法論は、自己を未完成な存在と認識しつつも、精神の内にすべての認識の基礎となるところの認識と機能が先天的(アプリオリ)に存在することを発見し、それを基にして、自己の完成という課題に対して超越論的統覚の形成という方向性を与え得たことは大きな成果であると共に、そのアプローチはある種、信仰的な香りを放ち得るものでもあったのである。そして、神学が自ら学問であることを意識し、その独断的な神啓示の宣言から脱却して、なにがしかの普遍性を獲得しようと願うなら、この奇抜な方法論に頼ることが得策に思われたのであった。
 しかし、この超越論的認識から始めて、一気に神の存在証明にまで到達することにより、宣教における決定的な推進力を獲得しようという誘惑に駆られることは、神学がそのあるべき方向性から逸れることを意味する。というのは、それらすべてを試みているのは、実は他ならぬ自己自身なのであり、この自己が未完成なものである限り、そのような企ては、結局未完のままに終わらざるを得ないことをボンヘッファーは見抜いた。果たして、そのようにして、哲学の土台が揺らぐとき、それを基礎にしていた神学もまた揺らぎ始めるのである。それは、哲学が「存在」という究極的には捉えようのない物自体をとにかくどのような方法を使ってでも認識しようと追い求めていたことによる。そこで、追い求むべきものは「存在」ではなく、「方向」すなわち「意志」ということになり、「意志する」という「行為」であるということになる。
 ここまでは良かったのであり、それはキルケゴールが言う「ソクラテス的な無知の知による罪の認識」からキリスト教的な「意識の中に存在する罪」の概念への方向性とも整合していたのであった。ところが反省が「意志」という精神的な対象に目をむけるや、哲学は再び観念論的な様相を帯び始め、外界の認識を断念し、自己の内部に閉じこもる傾向を持つようになった。その結果神学にも、一部そのような動きの影響を受けるものが現れ、従来の超越論的傾向を持つものと並立するようになった。それは、神学に独自の確固たる基礎がなかったため、哲学をその基礎に据えてきたために、その理解と適応に時間がかかったのである。しかし哲学ならまだしも、神学がこのような真理の根本的な探求姿勢において、多様性を持つことは好ましくない。それは、むしろ神学自体を混乱させることにもなるのであり、例えばバルトの神学において、この根本姿勢の曖昧さが彼の神学に対するプロテスタント諸派の分裂した姿勢を生みだしてきたのであり、さらにそれに留まらず、神学の中に迷いや困窮、そして華々しくは不信仰までも懐胎させるに至ったのである。
 そのような状況に対して、ボンヘッファーは、もう一度超越論的な方法論に戻るべきことを主張する。しかし単に元へ戻るというのではなく、それを良く理解し、神学自身の中にしっかりと基礎づけることが必要だと言うのである。そして、神学における二つの関心事を提示する。すなわち第一に、意識を超越する存在を認めること。第二に、人間の意志に対する啓示の関係において、意識の行為的性格を示すことである。前者により、神の存在可能性が確保され、後者により、その神に関わる方法が信仰の文脈で提示され得るようになる。
 いずれにしても、神学の寄って立つべきところは、神の言葉聖書なのであり、信仰の原則なのであり、さらに主イエス・キリストの大宣教命令なのである。

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