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2009/10/05

神に知られる向上

自分の魂を憎むということについて

  主イエスは、「この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」と言われた。エックハルトは、この「自分の命」というところを「自分の魂」と読み替えている。つまり、エックハルトが「魂」と言うとき、それは、肉体を維持し、動かし、感じ、考え、存在する一つの有機体を指す。それは、霊をも包含するものである。
 そのようなことを踏まえた上で、「魂を憎む」とはどういうことなのか。それは「魂が自らを観察し、思い描くそのイメージを憎む」ということである。そして、それはまた同時に「魂自身を憎む」ということでもあるのである。なぜかというと、魂が自らを観察し、思い描くそのイメージこそが実は、そのことを成している魂それ自身の現実の姿に他ならないからである。すなわち彼は、自分が自分に関して思い描いている、まさにそのような彼として生き、存在しているのであり、実際に彼はそのように彼自身なのである。なんと戦慄すべきことであろうか。
 かくしてエックハルトは、「この世で自分の魂を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」と語るのである。それでは、なぜ魂が自分自身を憎まなければならないのか。まず、魂が自分自身に関して描くイメージは虚構だからである。肉体という牢獄に閉じ込められている魂は認識において、能力的にも場所的にもまた時間的にも極度に制限された状態にある。それゆえ魂は、そのような状態においては、本当の自分自身を思い描くことができず、自分自身の虚像に悩まされ続け、自分が魂それ自身の純粋な光から遠く隔たっているのを悲しみ嘆くのである。
 「魂を憎む」ことは、魂のそのような虚構のイメージを憎むことであり、そのような虚構の内に生きようとする自分自身の態度を憎むことである。そのような自分自身の状態を憎むことによってのみ、魂は自分自身の虚像から解放され得るのである。そしてどうなれば良いのか。エックハルトは言う「魂の本性および本性的完全さとは、魂がみずからの内でひとつの知性的世界に、つまり神が一切の事物の原像を造りいれたあの知性的世界になることである」と。ここで言われている「あの知性的世界」とは、「御子」以外に考えられない。つまり、私たちは御子に似るものとされるのである。そして「そこにおいて魂はすべての事物を神の内で、それも、すべての事物があるようなその自然的純粋さの内においてではなく、それらが神のうちにあるような純粋な単純性の内でつかむのである。」
 ああしかし、私たちは、この言うなれば魂の理想像であり、かつ信仰の現実的な目標としての「あの知性的世界」を自分の魂の成長の目標とすることはできない。なぜなら、それは、あれでもなく、これでもないからである。それがもし「あれかこれか」であったなら。しかし、それこそがまさに虚構なのである。魂の到達目標に、「こうあるべき」とか「こうありたい」というような到達点はない。強いて言うならば、そのような相対的なものではなく、考え得る最上の可能性、いやそれ以上のものなのである。しかし、そのような魂の姿を、私たちは自分の想像力で思い描くことはできないのである。そこで、私たちにできることは、自分の魂を憎むというこのことだけなのである。
 エックハルトは祈る、「わたしたちの愛する主よ、わたしたちが魂を永遠の命のために護るよう、わたしたちの魂がまとう装いのもとでは、わたしたちが、わたしたちの魂を憎むようになることを。そのために神がわたしたちを助けてくださるように。アーメン」。

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