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2009/10/02

問題提起

Bonhoeffer 宗教改革以来歴史の中で、様々な人々が様々な神学的アプローチを展開してきた。それらを信仰の鮮鋭化のための試みと理解すれば、それらはまた、神の側から提供された福音という恵みを人間として正しく真剣に受け止めようとする努力とも捉えることができよう。その意味では、たとえ正統派信仰が忌み嫌ってきたところの自由主義神学であっても、それを一概に、人間が全能の神の全貌を理性で把握しようという野望とばかりは決めつけられないように思う。しかしそうは言っても、ここに一つの課題が認識される。それは、誤解を恐れずに極端な言い方をすれば、そもそも神は認識可能かということである。もちろんこれは、信仰にとっては元も子もない、ある意味で不遜な疑問であり、自分自身がすでに受けている救いの土台を疑うことにさえもつながりかねない。しかし、まさにこの部分が宗教改革以来、十分に確認、保証されないまま今日まで来てしまったのではないだろうか、というのがここでボンヘッファーが提起している問題なのだろう。
 確かに宗教改革により神の救いは、貧富の差によらずに与えられるところまで回復された。また、ルターの「ただ聖書のみ」との旗印により、信仰の純粋性も一応回復された。しかし、それらのことにより、返って信仰の本質は、個人の信仰姿勢にゆだねられることになったのである。実際、まさにその宗教改革においてカルバンが提示した予定論によれば、救いは必ずしも万民のものではないのである。ところがプロテスタント陣営には、「信徒には教会がある、そこに属していさえすれば、一人一人は自分の信仰の質をなんとか維持していける」との迷信が存在してきたのではないか。しかし、何らかの理由によって教会に集えない人、参加しない人についてはどうなるのか。もしかしたら、そのような状況は、プロテスタント版の免罪符とも言えるような状況ではないのだろうか。その証拠に、世の人々は、今日のキリスト教会が提供する救いを安っぽい、価値のないものと感じているのではないのか。そして、それは一面においては、当たっているのではないか。すなわち、今日の教会に集うキリスト者の多くが、福音の価値を自分の心の平安の理由を説明する以上のものとしては把握していないのではないのか。「みことばのみ」という、ルターが掲げた純粋信仰の巨大な旗のはためきが、返って現代の荒野を進む信仰者の目の前に垂れ下がる目隠しとなってしまっているのではないのか。
 そのような突飛な考えにも、現代のキリスト教界の状態を見る中で、何がしかの真理が含まれている可能性があるとするなら、ここにやはり、何かが成されなければならないだろう。神を知るとはどういうことか。福音に応答するとはどういうことか。宣教の真の動機とはなにか。教会は何のために存在するのか。24才の若きボン・ヘッファーの心を燃え上がらせた問題は、今に至ってもまだ解決してはいない。しかし、彼はここで少なくとも重要な問題提起をした。この書が学術論文であったということにより、それがそれほど多くの人に読まれるに至らなかったということはあるかもしれないが、それでもこの書は、今日のキリスト教会が必要としている示唆を含んでいるように思われる。それらは、キルケゴールが生涯をかけて追求していたものであり、ブルトマンが鮮鋭化を試みたものでもある。バルトが意図したが成し得なかったもの、エックハルトが想起し、カリスマ信仰が意図せずに実践し、その中を生きたものでさえあるのかもしれない。そして最後に、それは何よりも、主イエス・キリストがその御使いを遣わして、「あなたがたは、熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そう」と言われたことなのである。

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