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2009/09/30

神に知られる等しさ

神のために神を捨て去るということについて

 「神のために神を捨て去る」とは、唐突な考えのようにも思えるが、これを行った人パウロについて、エックハルトはこう言っている。「彼は、神から受け取ることのできたすべてを捨て去ったのであり、神が彼に与えることのできたすべて、彼が神から受け容れることのできたすべてを捨て去ったのである。彼がこれを捨て去ったとき、その時に彼は神を神のために捨て去ったのであった」と。つまり、「神を捨て去る」とは、一言で言えば、神との関係を断つことである。しかし彼は続けて言う、「そしてそのとき、彼に残されたのは神であった」と。パウロは、神との関係を自ら放棄した。しかしそれは、「神のために」であった。そして、パウロが神との関係を放棄したにも関わらず、彼と神との関係はそのままに残されたのであった。神の方がパウロとの関係を継続したからである。
 なぜそのようになったのだろうか。エックハルトによれば、「神は等しさそのもの」だからである。そして、「神は、その人が自分の手で捨て去ったとちょうど同じだけのものを与える」と言うのである。キリストも、「私が命を捨てるのは、それを再び受けるためである」と言われた。それは一見、無意味な反復のように思えるかもしれない。しかし「再び受ける」のは、今度は神から受けるのである。つまり創世記によると、すべてのものは神により創造されたのであったが、アダムが堕罪によりそれらを放棄し、その結果悪魔の手に渡ってしまったのである。しかし元々、それらは神のものなのである。つまり、悪魔は神の手から万物を直接に受け取ったのではなく、横取りしたに過ぎない。しかし、結果的にそれらが悪魔の手中にあるために、私たちがそれを手にするとき、それらは実は悪魔の手を通ってくるのである。そして、それこそが社会における経済原理、マルクスの発見した資本の原則なのである。私たちは資本主義経済に生きていて、この矛盾に気が付いているのだが、この世界にはそれ以上の最適解はないと思っている。しかし、まさにそこから貧富の差や様々な悲惨が生じていることにもやはり気づいているのである。
 私たちは、この間違った悪魔からのルートを無効にする必要がある。もちろん私たちは、この資本主義社会から抜け出すことはできないだろう。しかし、その原理に従って自分をすり減らして生きることからは自由になれるのだ。それは、決して「気の持ち様」というようなものではなく、そのことを始めたとき、実際に神の祝福が正規のルートを通ってあなたのところに流れるようになる。私たち自身は、すでにそれを受け取る権利を失ってしまっていたのだが、主イエスが勝利を得て、その権利を取り戻して下さったのである。そこで私たちが、悪魔との関係がすでに無効になっていることに気付き、それを放棄するなら、すなわち今自分の手にあるものをあえて一旦捨て去るなら、そこに神との本来の関係が復興し、私たちはそれらのものをもう一度神から受け取るようになるのである。そのとき私たちは、所有ということの真の意味を理解する。それは、この世における所有概念のような、喪失の危険と運命にいつもさらされているようなはかないものではない。そして、これこそがすべてのものを本当に自分のものとする方法なのである。つまり、私たちは万物を御子と共に父なる神から相続するのである。このこと、すなわち神の手から受け取るということを知った人は、この世のものに対する執着から真に開放されることになる。そして、神の意志の中にどこまでも留まることが可能になるのである。
 さて、「神は、等しさそのものである」とエックハルトは語る。すべてのものは、神の栄光を表すために創造された。その意味ですべてのものは相等しい。そして、この目的のために神は、すべてのものに等しく恵みを与えられるのである。そして「愛」、「認識」、「所有」というような事柄は、この神の創造の目的に沿って捉えられるべきものなのである。そのとき、「自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ」との神の命令も、「同胞のためならこの身が呪われて、キリストから離されてもいとわない」とのパウロの熱い思いも、その本当の意味が理解できるようになるのである。

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