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2009/09/10

神に知られる生き方

死して有る生き方について

 エックハルトがここで言っている「死してある生き方」には、少なくとも3つの意味がある。まずそれは「生まれながらの人は、実は霊的には死んでいるような生き方をしている」という意味である。次の意味は「私たちはこの世に対して、死んだように生きるべきだ」ということである。三つ目は、「死んだように見えて、実は真に存在する(有る)生き方が存在する」ということである。そして、これらすべてに共通なことは、「霊的に生きることは、この世に死ぬことによってのみ可能になる」ということである。
 この世に生きることは、五感を働かせて生きることである。そこでもし人がこの世で快楽ばかりを追求するなら、彼の意識は五感によって引き裂かれ、分割されてしまうことになる。というのは、五感にはそれぞれに異なった快楽があるからである。しかも魂は、一度に一つの像しか認識することができない。そのような状態では、彼は自分の生きる意味を見いだすことができない。彼に現前している力のそれぞれが彼を惑わすものとなるからである。そこで、彼の知性が一貫性を獲得し、神の前に不変なる存在性を獲得するためには、彼がこの世界をあたかも死んでいるように生きることにより、あらゆる事物の影響から自由となり、すべてを神のために行うことが必要である。そうすれば、五感による精神の分裂状況は解消するであろう。
 しかし実は逆に、このことこそが五感の存在意義であり、私たちが置かれている状況の意味なのである。というのは、神が反逆した天使すなわち悪魔とその手下たちを即刻滅ぼさずに世の終わりまで存続を許しておられるのも、彼らとの戦いを通して、聖徒たちが清められ、立て上げられるために他ならないのである。ちょうどそのように、私たちの心の王国に、五感という敵が戦いを挑み続けているのも、それらを通して、私たちの知性が統一に向かい、ついに一貫したものすなわち一なるものへと純化されるためなのである。そしてさらにそれは、私たちがこの世にいる間にしなければならないことなのである。というのは、エックハルトによれば「魂が肉体から離れれば、魂は知性も意志も持つことはない。魂は一なるものであり、そうすれば魂が神へと帰りゆくことを可能にする力を魂は見つけ出すこともできなくなる」からである。
 つまり、私たちの人生は、この神への回帰のためにあるのである。というより、私たちの置かれている世界は、時間の中で「永遠からの脱落」すなわち崩壊へ向かっていると同時に、また一方では神の元への回帰に向かって動いているのであり、それがこの世界の存在目的なのである。「なぜ、そんな無駄なことをするのか」と人は問うかもしれない。かの有名な宇宙物理学者ホーキングもかつてこの問いを発したが答えは得られなかった。なぜか。それは、人がこの問いを時間の中で問うからである。時間の中のこの世界には、それ自体の目的はない。それは常に過渡期であり、単なる崩壊と回帰の運動に過ぎない。しかし、この時間を超えた永遠の世界には列記とした目的がある。ただしその目的は、目的であると同時にすでに実現されている現実でもあるのである。というのは、そこには時間というものが存在しないからである。それが永遠ということなのである。私たちの心が永遠の中へと入るとき、それが理解できる。私たちは、もともと永遠なる神の元から流出し、この世に来たったのだからである。

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