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2009/09/05

神に知られる力

魂の内にあるひとつの力について

 「神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません」(使徒17:24)とパウロは言った。神は、人が造った物にはお住みにならない。いや、神は古い大木や岩山などにもお住みにならない。つまり神は、特定の被造物の中にはお住みにならないのである。
 しかし一方で主イエスは、「父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む」(ヨハネ14:23)と言われた。これらのことから言えることは、魂の内に、神が住まわれる非被造的な部分があるということである。「主イエスを心に迎えようとするなら、魂は処女であり、同時に女でなければならない」とエックハルトは言う。人が神に従おうとするなら、まず彼はこの世界のあらゆる事物や考えにとらわれることなく、完全に自由でなければならないのであり、この意味で彼の魂は処女的でなければならない。次に魂には、神から受けたものをもって豊かに実を結ぶことが求められている。しかし、魂によって結ばれる実は、決して人の産物ではなく、それは神の賜物であり、神の栄光を表すものである。そのようなものを人は、自分で創造することは決してできない。しかし、驚くべきことに、神はご自身の栄光となる賜物を人の魂の内に身ごもらせられるのである。それはちょうど、マリアが御子イエスを身ごもったのと同じである。この意味で、魂は女である必要があり、「女とは、魂につけることのできる最も高貴な名前である」とエックハルトは言う。
 この処女性と女性性は、魂の神秘的な力の内にあるとエックハルトは言う。神が人をご自身の似姿に創造されたからである。魂はあくまで造られたものなのであるが、その造られたという意味は、神がご自身の業と同じ業をご自身の内に生み出されたということなのであり、それが魂なのである。そこで魂は、神の業なのであり、それゆえに魂には、神の業すなわち、生むという働きが備わっているのだとエックハルトは言う。しかし、そのように魂がいかに崇高な、非被造的な性質を持っていたとしても、そこに神がお住みになることはない。魂のこの部分は、神の形なのであり、神の業を働くのだが、神ご自身を入れるには遠く及ばないのである。
 しかし魂の内に、ひとつの力があり、この力はすべてのものから完全に自由であり、実に被造性からさえも自由だとエックハルトは言う。というのは、それにはあり方も固有性もなく、すべてのもの、すべての概念から自由であり、完全に一にして単純な有り様だからである。神に造られた被造物が神のような性質を持つということがもしあるとすれば、実にこの形態しかないのであり、ここに被造性から非被造性への隠された入り口があるのである。エックハルトは、魂のこの非被造的な部分を「魂の城」と呼んでいる。
 神は、魂にこの非被造性への入り口を通る力を与えられたのだが、天使には与えられなかった。天使には、一つの到達点が設定されている。つまり天使は、100%神に仕える為に造られたのに対して、人は神の子として栄光を表す為に造られたのである。
 エックハルトは祈る、「どうかわたしたちが、そのようにひとつの城となり、そこにイエスが登り来たり、迎え入れられ、そしてわたしたちのうちに、わたしが語った仕方で永遠にとどまるよう、神がわたしたちを助けてくださるように。アーメン」。

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