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2009/09/02

クモの巣

Kumo 灌木に掛かっているきたならしいクモの巣を良く見ることがあるけれど、あれもきっと1年に1回くらい、きれいに見えるときがあるのだろうと思っていた。今日、雨がふって、気持ちいいので濡れて歩いていたら、そのクモの巣に出会った。これは、その1年に1回のチャンスだったのだろう。

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サソリのマグネット

Sasori いつだったか、仕事でラスベガスへ行き、そこのグランドキャニオン・ツアーに参加したとき、飛行場のみやげ売り場で買ったもの。小さいが本物のサソリがアクリルに埋め込まれている。かわいいというべきか、グロテスクと言うべきか、その中間の思いで買って帰った。安かったので、義理みやげに結構たくさん買ってカバンに入れていたら、友達に「変な趣味だね」と言われたっけ。

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神に仕える啓示

論述:離脱について
 この論述においてエックハルトは、それまでの彼の生涯を通した信仰的探求の結論として、「わたしの知性がなし得る限り、認識し得るかぎり、あらゆる書物を徹底的に探求した結果、わたしがそこにみつけたのは、純粋な離脱はあらゆる徳を凌ぐということに他ならなかった」と言っている。そして彼の探求の目的は、「神が被造物を創造する以前、人と神との間にいかなる区別もなかったとき、神の内にあるその自分自身の原像と最も近くなるためにはどんな徳によればよいのかを捜し求める」ことだったのである。つまり、彼が求めていたのは、原罪のない状態の自分であり、福音の恵みを越えたところにあるものである。それは、ある意味で「聖め」とか「聖化」とか言われていることに近い。それは、福音を前提にしてはいるが、しかしそこに留まるものではない。それは、キリストによって救われた後の延長上ことであり、もはや罪の赦しや悔い改めに留まっているのではなく、そこからさらに進んで、キリストとの日常的な関係を追求するものである。
 しかし、キリストとの生きた関係は、罪の中に生きていながら実現できることではない。神は、「私が聖いようにあなたがたも聖くあらねばならない」と言われるからである。そこで、救い主キリストを愛し、その僕となることを願う者は、彼のために自分の持ち物をすべてあきらめ、自分の罪をかなぐり捨てて彼に従うのであり、そのような人は、すでに福音の恵みを越えているのである。主イエスは、「私はあなたがたをもはや僕とは呼ばず、友と呼ぶ」と言われた。このとき主イエスは、旧約聖書しか持っておられなかった。そこで、主イエスの友とされ、アダム以来の罪から解放された者に、旧約聖書は、それが主イエスに対するのと同じ新しい意味を持つのである。主イエスがモーセの律法を完成されたからである。それは、聖書を書き換えることによってではなく、それを私たちの心に書き付けることによったのである。この「律法を心に書き付ける」とは、どのようなことであろうか。それは、もはや私たちの心で律法の要求を判断しないようになることであり、そのようにして律法から解放され、私たちの心が自ら喜んで、律法の命じるところを行うようになることである。
 そのためには、「自分を捨て、十字架を負って私に従ってきなさい」とのキリストの招きに従い、この世におけるすべての望みを捨て、残りの生涯を完全に主に献げる必要がある。これがエックハルトの言う「離脱」ということであり、それは消極的なものではなく、返って積極的なものであり、その中にこそ私たちが手にすることのできるあらゆる可能性が潜んでいるのである。というのは、キリストも信仰の偉人たちも、父なる神ご自身も、この同じ「離脱」を保有し、その中に生きていたし、また今も生きているからである。
『こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか』へブル12:1
 このように、エックハルトの言う「離脱」とは、私たちが追及しているオーソドックスな信仰の延長上にあるものであり、信仰抜きの離脱ということは想定されていない。つまり、キリストにより救われ、信仰的な向上を目指して努力してきた者が、この世界における究極的な献身を願って、この世における可能性を自ら放棄することにより、ひと粒の麦として地に落ち、そこから聖霊の力により復活し、自由に神に仕える神の子とされるのである。エックハルトは、それらをあくまで知性により追及する。「捨て去る」ことを意志するということは、知性の領域にあることだからである。しかし、「捨て去った者」、「捨て去ることをあえて成した者」は、知性の領域を超え出て、高次の知性の領域に入るのである。捨て去ることは、時間から解放されることであり、それは永遠の世界、霊的な世界への入口である。彼にはもはや、物事の前後や優先順位、戦略や企ては意味を持たなくなる。それらはこの世のものであり、彼はすでに永遠の世界、時間を超越した世界における神のご計画に参与しているのである。彼の五感を含む低次の知性は、依然としてこの世界に活き、そこで悩み、考え、活動しているのだが、彼の目覚めた高次の知性は、神の永遠の計画を常に彼の低次の知性に教え続けるのである。しかしそれは、彼に内にあってさえ、超自然的な作用、すなわち啓示により行われる。キリストが世を徹して祈られたのは、このことによるのである。彼の内には、神の永遠の計画が啓示されていたが、それは彼の中においてさえ神秘に包まれたものであり、祈りの中で啓示されるものであったのである。しかし、その啓示は、キリストをして全生涯を神のために献げつくさしめ、それにより神の御計画であった全人類の救いが成就したのである。私たちは、このキリストの中にあった啓示、エックハルトの言う「離脱」により、私たちに永遠に与えられるこの啓示を追求する必要がある。それは現代においては、またベニー・ヒンが「キリストの主権の啓示」として追及しているものでもあり、ホーリネスが「聖め」と呼ぶものでもあり、メソジストが「全き聖め」と呼ぶものでもあると思う。それは、キリストの真の僕になることを願い求める者たちが切に求め続けているものなのである。

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