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2009/08/24

様々な教派があるがどれが正しいのか?

 様々な教派の教理の対照として、よく取り上げられるのは、カルバンの予定論とアルミニウスの自由意思論である。前者は、救われて天国へ行く人は、その人数まであらかじめ決められており、神は救いに予定されている人に対しては、その救いが確かなものとなるように働かれ、救いに予定されていない人に対しては、彼らを恵みから落とそうと働かれるという。これに対して、後者は、神はすべての人に同等に救いの機会を提供されており、あとは各人の自由意思に基づき、救われる人と救われない人が別れてくるという。
 どちらも一長一短である。前者は、愛の神からは程遠いように思われ、後者は、神の全能性が制限されるように思われる点である。というのは、救いが各人の自由意思に依存しているとすると、誰も救われない可能性もないとは言えなくなるからである。しかし、後者のアルミニウス主義は、これを補うために、神の予知という概念を持ち出す。つまり、神は誰が救われるかをあらかじめ知っておられるというのである。そして、誰も救われないということはなく、またすべての人が救われるのでもないと言う。それなら、あらかじめ救われる人が定まっていることと、いったいどこが違うのか。アルミニウス主義にしてもカルバン主義にしても、誰が救われるかは、人間には明かされていないのだから。
 あと、私の所属するフリー・メソジストには、「聖め」という概念がある。「聖め」自体は、他の教団、例えばホーリネスにもあるが、フリー・メソジストのは特殊であり、「一瞬にして聖められる」という。それに対して、ホーリネスは、一生涯を通して「聖め続けられる」ということらしい。あと教派間で異なっているのは、奇跡や預言が現在も起こると主張する派ともう起こらないと主張する派。それから、聖書に書いてあることがすべて本当だとする派、それに対して、ある部分は作り話(神話や編集)だとする派。しかし、これらの違いは、教派間の交流により解消できると思う。つまり、奇跡が起こるなら、見せてもらえば良い。目の前で起これば、奇跡は今も起こることになり、起こらなければ、そうではないことになる。「今日は起こらなかった」というなら、1カ月、1年くらい余裕を与えれば良い。聖めにしても、「一瞬にして聖められた人」に会ってみれば良い。きっとその人が本当に聖められた人かどうか分かるだろう。もし分からないなら、それは偽物だろう。私は、自分の教団では、約1名、「この人は聖められた人ではないか」と思う人がいる。しかし、それ以外は見たことがない。でも、その人がいるために、私も「一瞬による全き聖め」という概念がたぶんあるんだろうと思うようになった。異言にしても、自分で語るようになって、初めてその存在を確信するようになった。奇跡についても、自分が祈った時に即座に相手が癒されたときに初めてそれを信じるようになった。かく言う私は、以前は聖書をすべては信じない、改革長老派の教会で長い間育てられてきたのである。
 しかし一番重要に思えることは、上記のすべての教派が、大して異ならない聖書を持ち、それを尊重し、同じ文面の使徒信条を唱え、三位一体の神を信じているということである。私には、教派間の相違よりも、この一致の方が驚くべきことである。そして、この一点において一致しているなら、すべての教派は、すべての人をキリストの福音に導くために神によって存在を許されていると言えるのではないかと思う。

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コメント

ありがとうございました。

投稿: ブログの作者 | 2009/09/29 22:55

霊と魂、聖めについては、それぞれ違った教派出身の複数の方からお聞きしました。
幕屋のたとえは「セブン・キー・トゥルース」というのだと思います。

投稿: ホープ | 2009/09/29 21:32

どこの教派の教えですか?

投稿: ブログの作者 | 2009/09/28 23:34

私が聞いたことを少し書かせてくださいね。

三位一体の神に似せて作られている人間は、霊・魂・体の三位一体。
霊は大祭司イエス様の入られる至聖所。
イエスさまを受け入れた瞬間に完全に聖められ、隔ての幕が裂ける。
魂は聖所。信仰により、聖霊と御言葉によって日々聖められる。
体は幕屋の外庭。

投稿: ホープ | 2009/09/28 22:50

『聖め』とは広義には、福音を信じて救われた時をスタートとして、日々の聖書の学びや様々な信仰的な体験を通して、救いや恵みの意味をより深く知ることにより、自らを変革しながら、神に喜ばれ、神の栄光をあらわす人と変えられて行くことだと信じています。聖書には、『わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。』(コリント人への第二の手紙3章18節)とあります。そして、これが一生涯を通して漸進的に実現して行くと考えるのがホーリネスの信仰、またある時点における霊的な体験により、魂の内面すなわち内なる人において先取り的に完全な聖めが行われ、それが一生涯を通して外なる人を変革して行くとするのがフリー・メソジストのアルメニアン・ウェスレアニズムと言われている教理だと思います。こちらは、非常に理解しにくく、私もまた私の教団の牧師も完全に理解していないと思われます。

投稿: ブログの著者 | 2009/08/30 17:12

 『聖め』とは具体的にどの様なことでしょうか?

投稿: ラピス・ラズリ | 2009/08/30 09:20

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