« 2009年8月26日 | トップページ | 2009年9月2日 »

2009/08/28

神に仕える真理

神と神性とについて
 「神が天と地、そしてすべての被造物を造ったとき、その際に神は働くことがなかった」とエックハルトは言う。「神は働くべきいかなるものも持たず、神の内にはどんなわざもなかった」と。神は、言葉により一瞬で宇宙を創造することのできる方である。たとえ天地創造に6日間かかろうとも、その際に神は何も働く必要がなかったのである。
 しかし、そのような神が人を創造したとき、「そのとき神は魂の内で神のわざと等しきわざを表した。・・・魂も神のわざにほかならない」とまた彼は言う。つまり、エックハルトによれば、魂は物質的には被造物であるが、そこに「神のわざ」すなわち非被造的な要素が存在し、全体を構成しているのであり、それ抜きでは魂とはなり得ないのである。
 魂は何のために創造されたのか。エックハルトが彼の他の説教の中で言っていることによれば、「魂の本性および本性的完全さとは、魂がみずからの内でひとつの知性的世界に、つまり神が一切の事物の原像を造りいれたあの知性的世界になること」である。
 魂は、神の内に、神の似姿として創造された。そして、神の内から外へと生まれ出てきたのであり、今も生まれ出つつあるのである。これらのことは、人間における妊娠と出産になぞらえることができよう。そして、その目的は、生まれ出る者、すなわち魂が、様々なことを体験しながら成長し、父と同じ身丈にまで成長することである。なぜ、親は子を生むのか。それが親の性質だからである。エックハルトは言う、「すべての被造物は、生むことと、父と同じになることを願って行為している」と。
 それゆえ、魂が父なる神を認識するのは、生まれ出ることを通じて、つまり父から流出し、孤立しようとすることを通じてなのである。「孤立しようとすること」と言ったのは、生まれること、すなわち流出は永遠のできごとであり、それが過ぎ去るということもまたないからである。
 私たちは、これらのことを自分の知性で完全に認識することはできない。私たちの意識は時間の中で、この流出を通じて、永遠からの脱落として生起するものだからである。しかし、もし私たちの意識が、すべての時間から自由になり、そのようにして自らの流出が、すなわち誕生が、神の前に永遠のできごとへと回復されるなら、私たちは、父から生まれ出た、あの原初の純粋性へと回帰することを得、「その意志は、その本来の自由なあり方にたち帰り、自由となり、そしてその瞬間、一切の失われた時間が再びとりもどされる」とエックハルトは言う。そのとき私は、いままでの神との関係を超克することになるだろう。そのとき、私はもはや神の元から流出し、離れていく運命的な呪縛から解かれ、真に自由な存在となるだろう。しかし、そうなった私は、一つのものを失うことになる。それは、被造物としての私が認識していたところの神であり、それはまた私の周りの全被造物が認識していたところの神でもあるのである。
 エックハルトは語る、「わたしが、神性のこの根底の内へと、この基底の内へと、この源流の内へと帰り来るとき、わたしがどこから来たのか、わたしがどこに行っていたのかと、わたしに聞く者はいない。わたしがいなかったと思う者は、そこにはだれもいないからである。このように帰り来たったとき、神は消えるのである」と。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2009年8月26日 | トップページ | 2009年9月2日 »