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2009/08/26

神に仕える生

観想的生と活動的生について
 「私たちが時間の内に置かれたのは、時間の内における知性的な活動を通じて、神に近づき、神に似たものになるためである」とエックハルトは言う。これが、私たちが生まれた目的であり、人生における様々な状況を理解する鍵なのである。
 さて、聖書はこの「知性的な活動」について、主イエスを家に迎えた2人の女性を通じて語っている。その内の一人マリアは、主の足元に座って、御言葉に聞き入っていた。彼女は、そのときの自分の状態に相応しく、主イエスから何かを受け取ることに専念していたのである。しかしマルタは、主イエスをもてなそうとして、忙しく立ち働いていた。そのとき、エックハルトによると、三つのものが彼女を主への奉仕に駆り立てていたのである。まず円熟した年齢と、極限にまで鍛え抜かれた魂の根底、そして、愛の命ずる最高のものを目指して、外的な仕事を手ぎわよくさばくことを知る賢明さ、最後に愛する客の高い品位であった。
 もしあなたの生活が、早朝の御言葉の学び、瞑想と祈りであるなら、あなたはあのときのマリアと同じである。しかし、もしあなたが、主から名前を二度続けて呼んでいただけるほどに、主の親しい友となりたいと願うなら、あなたはマルタのようにならなければならないとエックハルトは言う。マルタ、それは受けることを卒業した女性である。受けるための知性的活動ではなく、仕えるための知性的活動を生きる人である。マルタには、主の足元に座っている暇は与えられていなかった。しかしエックハルトは言う、「このような人たちは、事物にごく近く立っているが、しかしそれゆえに彼らははるか遠く永遠と境を接するところに立つときに持つものと少しもかわらぬものを持っているのである」と。つまり、日常の仕事に専念していたマルタは、そのことに少しも煩わされることなく、あたかも何の仕事もせずに主イエスの足元に座っていたマリアのように、いや彼女よりもさらに主に近いところにいたということである。どうしたら、そのようになれるのだろうか。それには、人の感性が訓練され、それが知性的な活動へと高められ、さらに彼の意志がキリスト・イエスを模範とすることにより、次第に清められていく必要がある。すると、「神は魂の根底にもう一つの意志を置く。それは聖霊の愛による掟をともなう『永遠なる意志』である。すると魂は、『主よ、あなたの永遠なる意志のなるごとく、わたしにもなさせたまえ』と語るのである。そして、魂がこのような仕方で、先に述べたことを満たし、それを神が気に入ると、愛する父は魂の内に永遠なる言葉を語るのである」とエックハルトは言う。そのような段階に到達するのは、いつのことなのか。それは、誰にも分からない。それは、神の主権に関わることなのである。しかし、またそれは、まず私たちの側の努力によって始まるのである。
 あるところまで行けば、苦痛や困難、我慢等がなくなるというのではない。私たちは、修練により無感覚になるのではない。ある意味では、返って私たちの感覚が開かれるために、この世の困難に対して敏感になる面さえある。「わたしの魂は悲しみのあまり、死ぬほどである」というキリストの嘆きがそれを語っている。「その巨大な苦痛は、キリストの本性の高貴さと、キリストにおける神性と人性との聖なる合一に起因したのである」とエックハルトは言う。
 しかし、そのようにして永遠に至る道を歩もうと努力する者に、神はそのための手だてを備えられる。「この道の外を、すべての被造物が取り囲み、手立てをそこにつくり上げるのである。しかしこの道にあるものは、父なる神の内へと、神の言葉の光によって導かれ、両者より発する聖霊の愛によって包まれているのである」とエックハルトは言う。そのようにして、主の足元に座って、教えを聞く者、すなわちマリア、すなわちあなたは、この世界の内で努力して生きることを通して、神の御心にかなう麗しい精神へと成長するのである。
 エックハルトは語る、「それゆえ、マリアが主の足元に座って主の言葉を聞いていたときは、まだ彼女が学んでいたときであった。ようやく学校に入って、彼女が生きることを学びだしたときだったからである。のちに彼女が学び終わり、キリストが昇天し、彼女が聖霊を受けたとき、はじめて彼女は奉仕の生活を開始し、海の彼方にまでも旅をし、説教をし、教え、使徒たちに仕える女、洗濯する女となったのである。」と。

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