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2009/08/24

ルツ記における訳の違い

 以下は、姑ナオミにどこまでも従って行こうとするモアブ人の嫁ルツの堅い信仰を表していて、感動的な箇所である。しかし、いくら堅い信仰と言っても、死後のことまでは責任が持てないのではないだろうか。
【新改訳】
1:17 あなたの死なれる所で私は死に、そこに葬られたいのです。もし死によっても私があなたから離れるようなことがあったら、主が幾重にも私を罰してくださるように。
【新共同訳】
1:17 あなたの亡くなる所でわたしも死にそこに葬られたいのです。死んでお別れするのならともかく、そのほかのことであなたを離れるようなことをしたなら、主よ、どうかわたしを幾重にも罰してください。

 1:1には、「この地にききんがあった。それで、・・・・」と言われているのに、どうして「私は満ち足りて出て行きましたが、・・・・」という表現ができるのだろうか。
【新改訳】
1:21 私は満ち足りて出て行きましたが、主は私を素手で帰されました。
【新共同訳】
1:21 出て行くときは、満たされていたわたしを主はうつろにして帰らせたのです。

 ルツは、信仰によってナオミに従ってエルサレムまできた。しかしそこでの生活において、貧困に甘んじなければならなかった。その現実のきびしさが、新改訳には表現されていないように思える。
【新改訳】
2:2 モアブの女ルツはナオミに言った。「どうぞ、畑に行かせてください。私に親切にしてくださる方のあとについて落ち穂を拾い集めたいのです。」すると、ナオミは彼女に、「娘よ。行っておいで。」と言った。
【新共同訳】
2:2 モアブの女ルツがナオミに、「畑に行ってみます。だれか厚意を示してくださる方の後ろで、落ち穂を拾わせてもらいます」と言うと、ナオミは、「わたしの娘よ、行っておいで」と言った。

 「十分食べて、余りを残しておいた」、「先に十分食べてから残しておいたのを」という表現に、どうも引っかかってしょうがないのだが。
【新改訳】
2:14 食事のとき、ボアズは彼女に言った。「ここに来て、このパンを食べ、あなたのパン切れを酢に浸しなさい。」彼女が刈る者たちのそばにすわったので、彼は炒り麦を彼女に取ってやった。彼女はそれを食べ、十分食べて、余りを残しておいた。
2:18 彼女はそれを持って町に行き、しゅうとめにその拾い集めたのを見せ、また、先に十分食べてから残しておいたのを取り出して、彼女に与えた。
【新共同訳】
2:14 食事のとき、ボアズはルツに声をかけた。「こちらに来て、パンを少し食べなさい、一切れずつ酢に浸して。」ルツが刈り入れをする農夫たちのそばに腰を下ろすと、ボアズは炒り麦をつかんで与えた。ルツは食べ、飽き足りて残すほどであった。
2:18 それを背負って町に帰ると、しゅうとめは嫁が拾い集めてきたものに目をみはった。ルツは飽き足りて残した食べ物も差し出した。

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小宇宙

Flower1Flower2Flower3Flower4 カメラを持って散歩をしていて、ある民家の前のお花畑に立ち止まった。一歩あるくたびに、そのお花畑は、違う世界のように見えた。そこには、たくさんの小宇宙への入口があった。私は、夢中でシャッターを切った。ひとつの入口も見逃すまいとして。しかし、私の見た小宇宙は、そこにあったたくさんの宇宙の、ほんの一部だったのだろう。この世界には、宇宙がたくさんある。ほとんど、人間の数だけ宇宙があるのだ。

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様々な教派があるがどれが正しいのか?

 様々な教派の教理の対照として、よく取り上げられるのは、カルバンの予定論とアルミニウスの自由意思論である。前者は、救われて天国へ行く人は、その人数まであらかじめ決められており、神は救いに予定されている人に対しては、その救いが確かなものとなるように働かれ、救いに予定されていない人に対しては、彼らを恵みから落とそうと働かれるという。これに対して、後者は、神はすべての人に同等に救いの機会を提供されており、あとは各人の自由意思に基づき、救われる人と救われない人が別れてくるという。
 どちらも一長一短である。前者は、愛の神からは程遠いように思われ、後者は、神の全能性が制限されるように思われる点である。というのは、救いが各人の自由意思に依存しているとすると、誰も救われない可能性もないとは言えなくなるからである。しかし、後者のアルミニウス主義は、これを補うために、神の予知という概念を持ち出す。つまり、神は誰が救われるかをあらかじめ知っておられるというのである。そして、誰も救われないということはなく、またすべての人が救われるのでもないと言う。それなら、あらかじめ救われる人が定まっていることと、いったいどこが違うのか。アルミニウス主義にしてもカルバン主義にしても、誰が救われるかは、人間には明かされていないのだから。
 あと、私の所属するフリー・メソジストには、「聖め」という概念がある。「聖め」自体は、他の教団、例えばホーリネスにもあるが、フリー・メソジストのは特殊であり、「一瞬にして聖められる」という。それに対して、ホーリネスは、一生涯を通して「聖め続けられる」ということらしい。あと教派間で異なっているのは、奇跡や預言が現在も起こると主張する派ともう起こらないと主張する派。それから、聖書に書いてあることがすべて本当だとする派、それに対して、ある部分は作り話(神話や編集)だとする派。しかし、これらの違いは、教派間の交流により解消できると思う。つまり、奇跡が起こるなら、見せてもらえば良い。目の前で起これば、奇跡は今も起こることになり、起こらなければ、そうではないことになる。「今日は起こらなかった」というなら、1カ月、1年くらい余裕を与えれば良い。聖めにしても、「一瞬にして聖められた人」に会ってみれば良い。きっとその人が本当に聖められた人かどうか分かるだろう。もし分からないなら、それは偽物だろう。私は、自分の教団では、約1名、「この人は聖められた人ではないか」と思う人がいる。しかし、それ以外は見たことがない。でも、その人がいるために、私も「一瞬による全き聖め」という概念がたぶんあるんだろうと思うようになった。異言にしても、自分で語るようになって、初めてその存在を確信するようになった。奇跡についても、自分が祈った時に即座に相手が癒されたときに初めてそれを信じるようになった。かく言う私は、以前は聖書をすべては信じない、改革長老派の教会で長い間育てられてきたのである。
 しかし一番重要に思えることは、上記のすべての教派が、大して異ならない聖書を持ち、それを尊重し、同じ文面の使徒信条を唱え、三位一体の神を信じているということである。私には、教派間の相違よりも、この一致の方が驚くべきことである。そして、この一点において一致しているなら、すべての教派は、すべての人をキリストの福音に導くために神によって存在を許されていると言えるのではないかと思う。

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