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2009/08/23

進化論と創造論のどちらが本当なのか?

 私は、どちらも本当だと思っている。しかし、普通に考えれば、この2つが同時に真理ではあり得ない。そこで、どういうことかというと、次のように考えている。
 たとえば、進化論が「地球ができてから46億年経っている」と主張するのは、創造論の主張する約6千年とかけ離れているので、これらは一見両立しないように思われる。しかし、今から6千年前に神が、45億9999万4千年かからなければできないような状態の地球を6日間で創造したとしたらどうだろう。進化論の観測も正しいし、というのは、彼らが科学的に観測する限り、地球の年齢は46億年と観測されるはずだろうし、そのような地球が6千年前に6日間で創造されたとする創造論の主張も正しいことになるからである。というのは、創造論にしても、神が6千年前にアメーバを創ったと主張しているのではなく、人間や他のすべての動物を創ったと主張しているからである。つまり問題は、「地球の年齢は何年か」ということではなく、「神が存在するか」ということなのである。
 そこで、創造論とは何かというと、それは、「進化論が間違っていることを論証する」というのではなく、神が実在するということを無神論者に説得するための一つのアプローチだと言えると思う。そこで、創造論を推進する方たちが、上記のことを意識しておられ、無駄な論争をしないことを目指しておられ、その上で進化論の考え方を引用または例示することにより、返って神の実在を証明することが効果的にできる、または、そのような議論や推論が、日常神に無関心な方々の興味を聖書に向けることに役立つとか、そういうアプローチを意識しておられるのなら、創造論は有益なものだと思う。しかし、単に進化論が神の存在を否定しているから、その間違えを暴くため、無神論者の無知を立証するため等々の目的に留まっておられるなら、それはあまり得策ではないと思われる。というのは、聖書にこう書いてある。すなわち、「作り話や切りのない系図に心を奪われたりしないようにと。このような作り話や系図は、信仰による神の救いの計画の実現よりも、むしろ無意味な詮索を引き起こします。わたしのこの命令は、清い心と正しい良心と純真な信仰とから生じる愛を目指すものです。ある人々はこれらのものからそれて、無益な議論の中に迷い込みました。」(テモテⅠ1:4~6)
 そこで、このような危険を避けるために、私は、「進化論か創造論か」という議論よりも、神の実在をどのように立証するかということに関心がある。この一点さえ得られれば、あとの議論は、聖書がすべて教えている通りだからである。また反対に、「神が実在する」というこの一点を棚に上げたままの議論は、人間中心主義に陥ったり、狂信的な議論を招いたり、その他様々な迷宮に陥る可能性があると思う。というのは、ノアの大洪水一つとってみても、その事実性を科学的に検討しようする立場もあれば、またそのような大量虐殺の是非やその目的等に関する教理的な議論にも発展しかねないからである。そのときに、創造論者が、「私たちは、そのような問題には関心がなく、ただ神の実在の立証のみに関心がある」というような主張をしても、一度起こってしまった議論を収拾するのは、容易なことではないと思われるからである。
 私のアプローチはと言えば、神の実在を立証するためには、創造論も一つの方法かもしれないが、他にも「力の伝道」と言われている分野における癒しや悪霊追い出しを通じて、生ける神の力が目の前で実際に働くことにより立証する方法や、神秘主義的なアプローチによる、神の直接的な描写による提示、また、神の言葉聖書が、福音を語る人を通して、それを聞く人の心に超自然的な変革を起こす福音的なアプローチ、また、聖書の言葉やエピソードが語りかけていることに対する決断を求めることにより現代人の生き方を問う実存的なアプローチ等々、さまざまな方法を相手の状態は立場に応じて使い分けることが理想的だと思っており、それがこのブログの目指していることでもあるのである。

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