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2009/08/19

神に仕える認識

三つの闇について
 「光は暗闇の中で輝いている」とヨハネの福音書にある。かつて光である御子イエスが来られたころのイスラエルは、ローマ占領下のまさに闇の状態であった。今日においても、人々は往々にして、闇のような苦難の中で主イエスに出会う。つまり闇とは、この世界の慣れ親しんだものたちを包み隠し、それらから私たちの目を引き離し、光の父へと向かわせるものである。
 これらのことに関してエックハルトは、3つの闇というものを提示する。第1の闇は、上述のような人生の苦難のことであり、それによりこの世のすべてのものが色あせ、光を失うのである。そして第2の闇とは、天からの光に照らされた者が、そのすばらしさのゆえに、その人に対してこの世界のすべてのものが価値を失うのである。さらに第3の闇とは、救われた魂が神からの清めに与るとき、もはやそれまで彼が神に対して抱いていた旧い思いや知識が一掃され、輝きを失い、新しい天の知識に満たされることである。このように、光と闇は対照であり、また対であって、闇は新しい、より高い光への契機なのである。
 エックハルトは語る、「『主は山に登った』(マタイ5:1)とあるが、これは、神がその本性の高みと甘美さとを告知していることを語るものである。この高みからは被造物の一切は必然的にすべり落ちている。人間が神の『像』であるかぎり、この高みにあっては人間は神および自分自身以外の何ものについても知ることはない」と。ここに「闇」というものの新しい意味が提示されている。それは、すべてのものを越え出るということである。ちょうど大気圏を越え出るとそこには大宇宙の闇があるように、この世界の一切を越え出たとき、私たちの魂が入って行く領域すなわち天は、それ自身においては輝きもせず、冷たくも、暖かくもない。そのように魂もまたこの闇の中では一切の光を失うのである。そこはまた、像も写しもない世界である。像と写しは、光によりもたらされるものだからである。それゆえ、そこではすべてのものは、光を介さず直接的に認識される。
 私たちの主は、群衆をあとにして山に登り、そこで口を開き、神の国について教えられた。私たちが神を認識しようとするなら、すなわち神の教えを受けようと思うなら、この山の上に登らなければならない。魂は、すべての像を放棄して、主の教えを聞くためにこの山の高みにやって来たのである。それは、そこにおいて、この世界の事物の真の認識の仕方を獲得するためである。エックハルトは語る、「魂は神の子であるこの『像』の内へと変容し、写され、刻印されなければならない。もし魂が一切の像を越え出るならば、魂は、神の子であるかの像の内に刻印されるのだ」と。魂が神の子であるかの像の内へと写され、刻印されるとき、魂は、すべての事物を神の独り子の内で認識するようになる。しかしそれは、あくまで像と写しを介した認識である。魂は像と写しなしに自らを認識することはないからである。しかしその認識は、神の独り子が事物を認識するまさにその形態そのものなのである。そしてそれゆえに、そのときまた魂は、神から子と聖霊とが発出するということ、そして魂自身が神の一人子であるということを神の内で受け取るのである。

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