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2009/08/15

母の洗礼

 父は、亡くなる前日に、病院のベッドで信仰を回復し、天国へ行くことができたが、母の救いについては、私は実のところ何も手立てが思いつかなかった。強いて言えば、父の葬儀を教会で行うことができたことと、教会墓地へ埋葬できたことであった。それというのも、父の葬儀を教会で行ったことが、田舎の住職を怒らせ、遠いこともあって、それっきり寺とは縁が切れてしまったからである。
 私は、一人になった母を、よく車で買い物に連れて行った。かつては、父の車で行っていたそれらのマーケットに行くことが母の心の支えになればと思った。そして、そこのフードコートでよくお茶を飲んだものだ。そんなときの話題は、子供や父の生前のこと、お墓参りの次期等であった。そんなことをしているうちに、教会の墓地委員会から、墓碑への記名に関する書類が届いた。私の心にひとつの思いが与えられた。それは、墓碑への父の記名のあとの1行を母のために空白にしておいてもらうことを申請することであった。驚いたことに、その願いは受け入れられ、その年教会墓地の墓碑に刻まれた8人のうち、父の名前の後に一行の空白が挿入されたのであった。その墓碑の写真を母に見せながらこう言ったものだ、「おばあちゃんは、ここに入るんだから、洗礼を受けなくちゃね」母は、驚いた様子だったが、気を取り直して、「そういうことになるかねえ」と言った。私の心の中は、天にも昇る気持ちであった。
 それからしばらくして、洗礼準備会が始まった。母は、相変わらず毎朝、仏壇の父の位牌に線香とお供えを上げて、鐘を鳴らしていたが、担任牧師から送られてくるメールを私が縦書きに印刷して、母に渡し、母がその課題を読んで答えを書き、それを私が牧師に返送するといったことを20回程度繰り返した。そのうちに、ほんの少しづつ母の学習意欲も上がってきたようなので、簡単な信仰書を与えたりして、一緒に信仰の話をする機会も持てるようになっていった。それにしても、母の心の内で、キリストへの信仰がどのように育っているのか、それは、私からは、すこし特殊にも見えるのだが、神がすべてを導いておられるとの安心感があった。しかし、ひとつだけ心配なことがあった。それは、母が一度も教会の礼拝に来ないことであった。ついに洗礼の日まで、一度も礼拝には出席せず、通信の洗礼準備会だけで済ませてしまった。牧師先生も寛大な方で、母が高齢であることもあり、それを許してくださった。そして、ついに洗礼の日を迎えた。母が教会にやってきた。そして、洗礼の誓約文が読み上げられ、母がそれにひとつひとつ応えるのを聞いた。私は、洗礼の水を差しだしていた。その後で母は、私と共に考えた信仰決心の証し文を読み上げた。それは、以前牧師に送付しておいた原稿よりもよほど長いものになっていた。
 それからというもの、母は毎週欠かさずに礼拝に出席している。それにしても、いったい信仰とはなんだろう。伝道とはなんだろう。人がキリストを信じるとは、どういうことだろうか。この歳になって、もう30年以上も教会に通いながら、まだ自分には、何も分かっていないように思えてきている。しかし、確かなことが一つある。それは、いますでに母の名が、天国に書き記されてあることである。

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