« 2009年8月5日 | トップページ | 2009年8月15日 »

2009/08/12

神に仕える視点

無である神について
 私たちは、この地上で生き、活動している。そこは、天からは隔てられた場所である。「神を見た者は、まだ一人もいない」と使徒ヨハネは語った。私たちは、どのようにして、この見えない神に仕えることができるのだろうか。しかしエックハルトは、「パウロは神を見た」という。それは、どういう意味なのだろうか。
 エックハルトによれば、パウロが神を見たのは、天から射してきたまばゆい光の中でのできごとであった。彼は地に倒れ、彼の目には何も見えなかった。エックハルトは言う、「もし彼の目が、何物かを見たとしたなら、それはもうすでに神ではあり得ない」と。それでは、神を見るとはどういうことなのだろうか。それは、「肉体の目ではなく、心の目で見る」ということなのである。そしてエックハルトによれば、人が心の目で神を見ることができるためには、まずその人の目が完全に盲目な状態、つまり何も見えない状態になる必要があるのである。しかし、どうしたらそのようになるのか。エックハルトは語る、「パウロはかの光に包まれたことにより、神以外は何も見えなかったのである。というのも、彼の魂に属するものすべてが、神であるこの光にかかわり、専念していて、それ以外には何も知覚することができなかったからである。そしてこのことは私たちにとって良き教えとなる。なぜならば、私たちが神に気をかけているときは、外からはほとんど煩わされないで済むことになるからである」と。つまりそれは、一種不随意的に起こる。そして、一旦起こってしまえば、後は私たちの努力ではないのである。
 それでは再び、それはどのようにして起こるのか。それは、強いて言えば、私たちの努力と神の哀れみの両方の結果なのである。パウロは、キリスト者を迫害するほど神に熱心であったが、神の哀れみにより、神を見ることを通して、キリストの使徒と変えられたのであった。それは、まさに神からの一方的な恵みであり、パウロ自身はそれを期待してはいなかったのである。しかしエックハルトは、このことに関して、さらに積極的な言葉を語る。すなわち、それは私たちの努力によってもまた引き起こされると。「魂が盲目となり、他のものは何も見えなくなったとき、魂は神を見るのである。このように必ずなるのである」と。そして、そうなるために彼が提示する方法は、「魂が一なるものの内に入り来て、その内で自分自身を純粋に放棄する」ことであり、そうするならば、「そこで魂は無の内に神を見出す」のである。しかしこの「魂が一なるものの内に入り来る」とは、いかなることであろうか。一なるものと言えば、神であるのだが、残念ながら我々は直接神を見ることはできない。そこで、神秘主義者エックハルトの方法論に従わざるを得ない。彼は語る、「知性は周囲をめぐり、そして捜す。知性はあちらこちらと偵察しつかんだり、失ったりする。探し求めるこの知性の上には、さらにひとつの別な知性がある。この知性はそこではもう探し求めることもなく、かの光の内に包みこまれた、その純粋で単一な有の内に立つのである。つまり、この光の内で魂の一切の力が高まったのである。」と。
 彼が言う「一なるもの」とは、この「単一な有」のことであり、それはまた、パウロを包み込んだ「天からの光」と同じ光に常に包み込まれているものなのである。そして、魂の内にある高次の知性、ものごとを捜し求める欲望や野心からもはや解放されたこの新しい知性は、かの光に包まれた単一なる有の内に常にあるものなのであり、信仰者の意識が彼の通常の知性からこの高次の知性の内へと飛躍するとき、彼の知性は神を見ることになるのである。しかしそのとき、彼の諸々の感覚は思惟の内へと飛翔しているのであり、彼の目はもはやこの世界のものを見てはいないのである。
 そのように人は、この世界のものと神とを同時に見ることはできないのであり、この世界のどのようなものも、神を知るための妨げでこそあれ、まして助けとはならないのである。そして、さらに神を心の目で見る場合においても、この世界のものを見るようにして見る、すなわち、感覚的にとらえようとしたり、理解しようとしたり、また、知ろうとしたりするならば、それは神を知るための正しい方法ではないのである。それでは、私たちは神をどのような姿勢で求めるべきなのか。それは、エックハルトによれば、「あり方も尺度も全くない認識」ということであり、人間の認識は、そこまで到達することが可能ということである。それは、その認識の基礎が自分の魂の内にあるからである。神が人をご自身の姿に創造されたゆえに。生まれたからこれまでに、自分の中に築かれてきたものすべてが自らの努力で取り除けられるなら、それが起こるのである。彼は語る、「それゆえに、花嫁は愛の書(雅歌)の内で、『わたしがもう少しだけ先に進むと、そこにわたしはわたしの魂の愛する人を見つけたのだった』(雅歌3:4)と語るのである。魂が超えていった少しだけのものとは一切の被造物のことである」と。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2009年8月5日 | トップページ | 2009年8月15日 »