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2009/07/29

神に仕える必然

魂の内にある火花について
 この説教の中でエックハルトが語っている「魂の火花」とは、いったい何だろうか。彼によれば、それは紛れもなく魂の内にあるのだが、それは被造物ではなく、一つの力であり、一つの働きである。人は、神により神ご自身の形に創造された。しかし、神ご自身は肉体を持っておられない。そこで、「人が神の形に造られた」とは、それが物質としての肉体を持つと共に、物質とは異なる天的な要素、すなわち魂を持つということである。魂は、どのように天的なのであろうか。それは、それが滅びゆく肉体のような物質ではなく、エックハルトによれば、「神は被造物の本性に働く能力を貸しわたす。そしてその本性のはじめてのわざが心というものなのである」。つまり魂とは、神から貸しわたされた神の業なのである。神は、人を塵から形造り、ご自身の働かれる業と同じ業、すなわち命の息をそこに吹き込まれた。そこで人は生きるものとなった。それは、無からの創造ではなく、神ご自身の内へ神ご自身と同じものを造りこむこと、すなわち生み出すことである。生むとは、自分の内に自分と同じものを造り、それを外へ生みだすことである。妊娠と出産は、それを地上的に表している。しかし、「生む」ということは永遠の業であり、終わりのない業、永遠に続く業であり、生むものは永遠に父であり、生まれるものは永遠に子である。そして、「生む」という業も永遠であり、生み終わることはないのである。そこで、生まれるものは、永遠に生むものの内に留まったままであり、同時に外へと流れ出続けているのであり、これが永遠における生むということであり、それが魂なのであり、そのすべてを認識する高次の意識とでも言うべきものが「魂の火花」なのである。
 どのようにしてそれはすべてを認識するのであろうか。それは、まさに生むという働きが自分の内にあり、それが神の働きでもあるということからである。それは、肉体を持った魂の中で営まれる働きではあるが、本質的には、神の働きと同じ働きなのである。それは、神が人をご自身の形に創造され、そこにご自身の業を吹きこまれたからであり、その結果、人もまた生むものとなったからである。そして神は、この人の生むという業を完全なものにするために、ご自身の独り子を人から生まれさせ、その方により、人類の罪を贖い、その方を信じる者の心にご自身が生まれることを約束されたのである。この神が人となったということにより、人の中に営まれる「生む」という業が完全なものとなるのである。そのような贖われた魂が認識するのは、どのようなものであろうか。それは、自分と神との完全なる合一であり、一致であり、統合である。そして、その結果そこに一つの静けさが存在するようになる。それは、同等性による静けさである。すべては、この認識により、永遠の平安を獲得する。魂の持つ高次の意識がそれを認識するのである。そして、それは、自分自身なのであり、これ以上の静けさは存在しない。
 エックハルトは語る、「そしてここ、だれも住まいするもののないこの最内奥においてはじめて、この光は満ち足りるのである。その内では、この光は、それ自身の内にあるよりもさらにいっそう内的である。というのもこの根底は、みずからの内で不動な、ひとつの単純な静けさだからである。しかし、この不動性によってすべての事物は動かされ、それ自身において知性的に生きるあらゆる命が受けとられるのである。わたしたちが、このような意味において知性的に生きるよう、わたしが話したこの永遠なる真理がわたしたちを助けてくれますように。アーメン」。

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