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2009/07/28

神に仕える浄福

神が魂の内に子を生むということについて
 聖書に、一人息子に死なれた寡婦の話が載っている。その息子の葬りの行列に主イエスが近寄り、「若者よ、あなたに言う、起きなさい」と語りかけられると、その死んだ息子は生き返った。この寡婦とは魂のことであり、また息子とは、知性のことであるとエックハルトは言う。世では、一般に知性的な生き方が尊重され、キリスト教会においても、知性的な信仰がもてはやされることが多い。しかし、知性的に生きることが必ずしも信仰的とは限らない。そればかりか、ときとしてそのような生き方が、自分の欲望追求の手段となることさえある。人の思い図ることは、生まれつき悪いからである。そのとき彼は、自分の心に悪しき思いや計画を育んでいることになる。それは一見、彼の外にある何物かであり、彼自身はそれとは独立しているように思えるかもしれない。しかし、それは実は彼自身でもあるのであり、彼の悪しき形態における自己実現なのである。そういう意味からも、彼は自分の内に悪しき自分自身を生んでいるのである。否、彼は自分の内へ何か有益なものを生んでいるのではなく、実は自分の外へ向かって自分を生み出そうとしているのである。しかしその終局は、息子の死、すなわち彼の知性の堕落であり、彼はついに自分の知性を捨て、放縦に身を任せるに至るのである。結局世の追及するものは、知性的な生き方などではなく、その先にあるのは、むしろ往々にして官能的な欲情の追及でさえあるのだ。つまり彼は、以前は神に造られた魂として、自分の内に神の形を生むべく備えられていたのだが、今や彼の野心が彼をして、本来の成長の方向性から逸らせ、自らの悪しき心をもって、その成果としての工作物を彼の外へ向けて顕示しようと思い立つに到ったのである。これは、まさにルシファーが行ったこと同じであり、彼自身は、自分の知性を鮮鋭化し、発展させようとしたのだが、それを自分の栄光のために行ったため、返ってそれを失ってしまったのである。
 しかしもう一つ、全然別の知性の失い方がある。それは、神のために自分の知性を軽んじることであり、この世の追及する一切のものから目を転じて、見えない天的な清さに身を投じることである。それは知性的には、自ら不妊の女となることであり、主イエスが言われた、「私のために父、母、兄弟、財産を捨てるものは・・・」という招きへの応答である。そしてその結果は、主イエスが言われた通りに、その人が捨てたものの百倍を受けることになる。すなわち、彼は神のために彼の知性の向上を断念したのだが、そのことにより、今度は彼の高次の知性が覚醒を始め、彼の魂が神を目指して、遙かな高みへと舞い立つのである。彼の内部は、神の御子の生誕の場所となり、常に淨福な場所となる。彼の知性は、神と共に豊かに生み始める。聖書は語る、「生む能力のある女の子供らよりも、不妊の女の子供らの数の方がはるかに多い」(イザヤ54:1)と。またエックハルトは言う、「魂は自分自身を自分自身の内で生み、つぎに自分を自身の外へと生み、そして再び自分を自分自身の内に生む」と。
 このように、神に造られた最初の浄福の内に留まる魂は、彼自身の作り出す惨めな可能性に対しては閉ざされるが、彼に神から与えられている本来の可能性に対しては大きく開かれることになる。そこにこそ、彼が捜し求めていた一切以上のものがあるのである。その場合、彼はいったい何を新たに獲得したのだろうか。それが実は、何もないのである。この領域には、人が新たに獲得できるものはなにもない。彼が浄福を得るためにできる唯一のことは、彼自身であり続けることであり、それ以上を求めることは彼にふさわしくない。そして、彼が彼自身であり続けるときにこそ、彼は神に一番近いのである。なぜなら、彼は神に彼として造られたと共に、彼自身神の似像であるからである。エックハルトは語る「多くの師たちは浄福を知性の内で求める。しかしわたしは、浄福は知性の内にも、意志の内にもなく、それら二つを越えていると断言する。浄福が知性としてではなく、浄福としてあるところ、神が神としてあるところ、魂が神の像であるようなところ、そこにつまりは浄福があるのである。魂が神を、あるがままにつかむところ、そこに浄福はある。そこでは魂は魂であり、恩寵は恩寵であり、浄福は浄福であり、神は神である。主に祈ろう。わたしたちが、そのように神とひとつになることに恵まれるよう、神が助けて下さるように。アーメン」。

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