« 2009年7月17日 | トップページ | 2009年7月23日 »

2009/07/22

神に仕える必然

自分自身を脱ぎ捨てるということについて
 聖書の中で預言者が「時が満ちると、御子が遣わされた」と語っている。この「時が満ちる」とは、単に歴史上のある時点に到達したという意味ではなく、もっと霊的なことだとエックハルトは言う。彼はここで、この言葉を彼流の救済論に基づいて引用しているのである。その場合そこには、2つの意味が見い出される。ひとつは「死するとき」、もう一つは「時間がその果てに到るとき、つまり時間が永遠の内へと入るとき」である。
 私たちは、時間の中で生活している。だから上記のような救済論的な意味では、この「時が満ちる」と言う状態は、その人に与えられた時がすべて経過してしまったとき、つまり「死するとき」という意味にも受け取れるかもしれない。しかし大切なのは、むしろ彼がまだ生きているうちに「時が満ちる」ことなのである。それは、人の心がこの世界の事柄から離れて、永遠の世界へと向けられることである。しかしそれには、私たちは、自分自身に完全に失望し、それを脱ぎ捨てる必要がある。それは、もはやこの世界では、何も成し遂げようとしないこと。もう人間としては、生きている意味はないと思うこと。もはやどのような望みも持っていない状態になることである。それは一見、何の望みもない愚かなことに見えるかもしれない。しかし、その本当の姿は、神の純白のキャンバスとなることなのである。その上に、全能の神があなたへの約束を描き込むことができるように。そのようになったときが「時が満ちる」ということである。つまり、あなたの内に神のための用意ができるということである。この「用意ができる」とは、どういうことであろうか。「自分自身を捨て去るならば、そのことによって人は、キリストと、神聖と、浄福とをみずからの内に迎え入れるのである」とエックハルトは言う。
 この「キリスト」と言うのは、そうなったとき、もう一度あなたの心の内に御子イエスがお生まれになるからである。それは、あなたにとって特別なことである。というのは、そのことにより、あなた自身が神の子とされるからである。というのは、創造主である神は、御子のためにこの宇宙を創造されたのであり、そして、神があなたの内に御子を生んだのは、全宇宙を御子を通してあなたに相続させるためだからである。それだけではない。御子は、神の言葉であり、それがあなたの内に生まれるということは、生きた聖書の御言葉があなたの内にあるということである。そしてそれは再び、この世界に対する神の計画と約束のすべてがあなたの内にあるということである。つまり、旧新約聖書に記されたすべてのことは、あなたにおいて成就するのである。
 次に「神聖」と言うのは、「神に近い」ということである。自分自身を捨てたことにより、そこに残されるのは、神がご自身に似せて創造された、本来の姿としての魂である。そして、神が創造者として完璧なお方であるゆえに、その出来映えもまた完璧なのである。それゆえ、彼は神を求めて、自分の外へと出ていく必要はない。彼の内に、完璧な神の形があり、その形は、彼が神につき従う限り、神として機能する、否、神ご自身なのであり、この像において、また彼自身を神の子とするのである。そのように、霊的な世界の距離概念は、この世界におけるそれと大きく異なっており、そのように魂は自分自身よりもさらに神に近いのである。
 最後に「浄福」と言うのは、これらすべてのものが、すでにあなたの内にあるということである。かつて、エジプトを脱出したイスラエルの民は、荒野で黄金に光り輝くアークとそれを包み込む雅やかな幕屋を建造した。どこからそのような高価な材料を得たのだろうか。彼ら自身の内に、それに必要な宝が隠されていたのだが、彼ら自身はそれを意識していなかったのだった。浄福とはそのようなものであり、人がそれに気づこうと気づくまいと、それはそこにあるのであるが、その人がそれに気付かなければ、それは無いのと同じなのである。そして、エックハルトが語っているのは、これら3つ、すなわち「キリスト」と「神聖」と「浄福」は、自分自身を脱ぎ捨てた人に与えられるということである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2009年7月17日 | トップページ | 2009年7月23日 »