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2009/07/17

神に仕える神秘

神の子の誕生について
 「われわれは、永遠の秘蔵性の隠された闇から父が永遠の内で生んだ独り子であると同時に、すべての純粋さの満ちた原初の純粋性という始原の内に依然としてとどまりつづけているのである」とエックハルトは言う。ここから理解されることは、「生む」ということは、永遠の業であるということである。「生むこと」は永遠に続く。生むものは、永遠に生み続けるのである。というのは、生まれてしまえば、「生むこと」自体は過ぎ去ってしまうからである。しかし、神がその独り子を私たちの魂の内に生むということは、永遠の業なのである。子は、永遠に子であり、父は永遠に父であり、父が独り子を生むということもまた永遠の業である。というのも、これらは永遠の世界におけるできごとだからである。
 ところが、その原初の純粋性から出てきたもの、すなわち生まれ出たものが、自分という存在を意識するに至るとき、彼は時間の中に生まれるのであり、そのようにして、彼と彼を取り巻く世界は、永遠からの脱落を始め、自ら無に帰そうとするのであり、そしてそのこと自体がまた無と言えるのである。この流れの中に身を置く限り、その終局は無であり、無秩序な分散であり、これがエントロピーの法則でもあるのである。というのはこれは、個々の生まれ出た者たちが、自分の世界の中に閉じこもり、それぞれの限定された知恵と知識とをもって具体的になろうとする方向性だからであり、その状態から自分の力で逃れる道はないのである。
 しかしもし、その生まれ出たものが、もう一度、自分の生まれ出てきた原初の状態を取り戻す、すなわち思い返すなら、彼にはそれまでのいっさいの時間が取り戻され、彼の本来の命が回復されるとエックハルトは言う。しかしそれは、彼自身の努力によっては不可能である。それゆえ、主イエスが来られたのである。彼が神の独り子であるゆえに、そしてこの世界に肉体を持って生まれ、そのご自身の肉体を十字架の上で生け贄として捧げたことにより、私たちを死と裁きの恐怖から解放し、この世界から真に霊的な世界へと目を向けさせてくださった。それだけでなく、罪の購いにより、神との関係を回復させてくださったのである。この神との関係とは、父と子の間の関係であり、その回復は、御子を信じる者の心に神の独り子が生まれることによるのである。そしてそのとき、彼もまた神の子として、神の中に生まれることになる。この「神の子」とはなんであろうか。それは、自分の内に神の独り子を懐胎している。ちょうどマリアが御子イエスを懐胎したように。そして彼女が神を生んだように、彼もまた神を生む。しかしそれは、エックハルトによれば、魂が神の似像であるような場において成されることなのである。神が彼を、ご自身の似姿に創造されたからである。
 これらすべてのことが、神から生まれ出て孤立してしまった彼をして、原初の流出、つまり父との永遠の関係に彼を回帰させると同時に、自らその一人子として具体的にならせるのである。それは、原初の流出において散乱してしまったものが無に帰するようになるのではなく、返ってその最高の完全さに従い、そこでこの有が完成することなのであり、これが原初の流出の目的だったのである。しかしこの有の完成が、何か把握可能、認識可能なものであったなら、それはまだ完成とは言えない。と言うのは、この完全性は彼をも包み込み、彼を永遠の平安の中に憩わせるものであるからである。そこで、彼自身がその全体を把握しているのなら、彼の自己はその中に決して憩うことはできない。しかも今や、彼は原初の純粋性の中で、神を生む神の一人子なのであるから。そこで、この有の完成は、彼自身でありながら彼をも包み込むところの隠された静粛な闇でなければならない。エックハルトは言う、「そこは認識されることがない。認識されることはこれまでにけっしてなかったし、またこれからもけっしてないであろう。そこで神は、自分自身の内で認識されずにとどまり、永遠なる父の光がそこでは永久に射し込んでいるが、しかしその闇がその光をとらえることはついにない。わたしたちがこの真理にいたりつくよう、わたしが語ったこの真理が、わたしたちを助けてくれますように。アーメン」。

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