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2009/07/15

神に仕える向上

一なる神について
 神を愛してやまない魂は、神に仕えるということにおいて、つねに向上を追求する。その契機は意志の領域にあり、その目標は善と義である。しかし神秘主義においては、ある意味で認識が意志を先取りしているのであり、それゆえ義とはエックハルトによれば「真理における一切の事物の原因」のことなのである。神秘主義はそのように、見えないものを高次の知性により把握するのだが、それは科学のように漸進的に行われるものではなく、一瞬にして行われるのである。しかし、たとえ高次の知性がそのように一瞬にしてそれを把握したとしても、その人の意識がそれをどこまで認識できるかは、個人差のあるところであり、この領域において、何か漸進的な向上というものが想定され得るのである。しかし、ここにおける「漸進的な」という表現も、再び「漸進的な知識の獲得」という意味ではなく、こと神的な領域における知識の取得はあくまで一瞬の内に全体が獲得されるか、さもなくば全く何も獲得されないかのどちらかなのである。その上、高度の知性がそのようにして、神的領域における知識の全体を一瞬にして認識したとしても、それはまた、同様の速やかさで完全に忘れ去られることがあり得るのである。
 それではその場合、認識は何を漸進的に獲得するのかというと、それは、自分の高次の知性が、一度は神的な領域の知識を完全に把握したという事実とそのときの高貴な感触の記憶なのであり、そのような経験的知識が積み重なれば、それだけ高次の知性が再び神的な領域の知識を一瞬のうちに完全に獲得することが、より頻繁に起こるようになることが期待できるのである。というのも、そのようにして、彼の知性と意思の内に、神への愛と義と善への憧れが増し加わるからであり、それゆえ彼は神に向かって高く心を羽ばたかせるのであり、そのようにして彼の高次の知性もまた呼吸を始めるからである。しかしそうは言っても、そのようになること自体が実は、習慣的なことでもまた学習的なことでもないばかりか、むしろきわめて神秘的なことなのであり、そのことをエックハルトは別の説教の中で、「神的な光がそれらの内に射し込むことはありえない。しかしながら、修練と浄化によっては、それらは受容するようにもなり得るのである。この点に関してある別の師は、内面の光と等しいある光が諸力に与えられると語る。なるほどその光は内面の光に等しいのではあるが、しかし内面の光ではない。この光からこのとき魂の諸力へとある刻印が与えられ、その結果魂の諸力は内面の光を受容するようになるのである」と言っている。
 「一なる神」と聖書は言う。この「一なる」とは、上述のように、神的な領域の知識は分けることができないということであり、それへ向かっての上昇が求められているのである。すなわち、「友よ、もっと高く登りなさい、そうすればあなたに名誉が分かち与えられるであろう」(エックハルトによるルカ14:10の解釈)と言われている通りである。そして、この高い領域への道は、この世界に無限に想定されるのであり、神が創造したすべての被造物も、天もその完成へと向かって急いでいるのである。エックハルトは語る、「神はそのすべてのわざの内で、一切の事物からけっして目を離すことはない。この一切の事物とは魂のことである。魂より下位のすべての事物の内で、最も高貴なるもの、最も純粋なるもの、最も高きもの、それを神は同時に魂の内へと注ぎこむのである。神はすべてでありそして一である」と。

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